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第3部

態度と振る舞い。幸福に不可欠なもの。


第20章 意義と目的

 
 

人生に意義と目的があると考えるなら、実際にどんな環境でも幸福の達成は可能だ。「Man’s Search for Meaning(意義の探索)」の心理分析者ヴィクター・フランクルによって、幸福の意義の重大性に私は初めて気づいた。ナチの死のキャンプで捕虜だったフランクルは、できるだけ赤裸々な方法で観察した。生きる意志を主張する目的の意義を人は必要としている。

意義と目的の必要性は、幸福にとって途方もなく大切というだけでない。人である特徴を根本的に区別している。ある動物は感情を持っているかもしれない。そして、互いの情報交換の能力がある。人とさえも情報交換する。しかし、少なくとも一つ違うのは架橋できないことだ。------動物は生きがいを持つ必要がない。人である事は、一方、生きがいを必要とする。ヴィクター・フランクルの見方では、人は、他の動物と同じくらいか、恐らく、もっと生き甲斐を必要としている。例えば、性の精力が強力であるのに、性的関係なしで幸福な人生を引き出せる人はいる。しかし、生きる意義と目的を欠いた人が幸福な人生を送ったことはほとんどない。

他人と一緒にいる必要がある重要人物でさえ、生きる意味を必要とする人と同じくらい偉大ではないかもしれない。アナトリー(ナタン)・シャランスキーがソビエトに異議を唱えている時の記録に、次のように書いている。独房監禁の苦痛に耐えている時でさえ、アナトリーは監視人よりは幸福だった。なぜなら、彼の人生は、監視人と違い、生きる目的と意義があったからだ。

 

 

 意義の型

 生き甲斐を見つける事の大切さは、最近の議論の中心になっている。しかし、それを見つけるだけでは不十分だ。2つ信念から生き甲斐は得られる。-------生活が意義を持っていること。そして、生活そのものに意義があること。両方とも----個人の意義と卓越した意義において----------幸福にとって必要だ。

 両方の考えを持っていない人も、持っている人もいる。多くは、どちらか一つだけを信じる人だ。------彼ら自身の生活は意味を持っているが、生活そのものは結局、無意味だ。後のほうは、非宗教的な知識人に多い。彼らは生活を、当てずっぽうで、管理されないもの(本質的に分別の理由として)と見ている。しかし個人の生活を意味あるものと考えている。純粋に論理的な立場で、意味のない宇宙が、どのように生き甲斐を作ることができるのか私にはわからない。しかし、ほとんどの人が意味のない宇宙を信じて、同様に自分自身の生活を意味のあるものと思いたくない理由は、よく理解している。

 

 

 

 生きがい

 個人の生き甲斐は、次の3つから由来している------------(家族、友人との)関係、仕事、目標。

 関係   ほとんどの人、特に親は良く知っている。家族から如何に多くの生きがいが得られるか。例えば、人生で、子育てほど有意義な事はあまりない。主として、物質的に、情緒的に、精神的に、道徳的に、経済的に、親は子供を支える。そのような役割は人に可能な限り多くの生き甲斐を与える。感情面では、子供の笑顔ほど、多くの生きがいを与えるものは少ない。子供たちは私たちに打解け、世話のもと、つぼみの開花から大人へと成長する。

あなたは、家族の意義に感謝する親になるのか、ならないのか? 愛すること、愛されること、必要とされる事に、大きな生きがいがある。--------そして、家族から、それら全部を得ることができる。加えて、ほとんどの男性は家族のため物質的に扶養することから、女性は家族のために情緒面で扶養することから意義を得る。(もちろん両方とも物質的、情緒的扶養をできるようになってきている)。一方、小さい子供は家族の一員であることから、ほとんど全ての意義を得る。

 友人も同様に生きがいを与える。実際、友人を持たない子供は、素晴らしい家族があったとしても、後にうつ状態になったり、他の感情的、社会的問題の危険をもっている。

 仕事  主要な生きがいの2つめは、仕事だ。そして、それは、金銭的な報酬と関係ない。弁護士は大きな年収があるかもしれない。例えば、彼らの仕事で、ほとんど関心を集めない人か団体を弁護している時は、あまり、やり甲斐を見出せないだろう。他方、例えば、教師のように稼ぎの多くない人、またはボランティアのように無報酬の人は、自分の仕事に深い意義を感じている。

 多くの人は、仕事にやり甲斐よりも金か地位を求めている。彼らにとって仕事は特に意義のあるものではない。そして主要な幸福の源でもない。1つ明らかなことは、自分の仕事で、収入か、やり甲斐かを選択しなければならないことが度々あるという事だ。

 目標   3番目の生き甲斐は目標を持つことだ。3つの生き甲斐のなかで、目標を持つことは最も強力なこともあり得る。しかし、それはまた、最も危険だ。悪のための力は、善のための力と同じくらい強い。目標が例えば、病気に打ち勝つこと、子供を守ること、であったら、その目標は意義があって、同時に善だ。しかし、意義があっても善ではない目標もある。

 他の2つの生き甲斐がなくて、目標だけを持つ時、目標は、他の生き甲斐、特に人間関係の代用になることがある。これは一例だが、若い独身の人は、結婚している成人より簡単に人生に目標に与えやすい。彼らには配偶者も子供もない。深い友人関係を持っていることもあまりない。そして、人生の仕事を持っていないことが多い。目標は彼らの生き甲斐の中で最大のものになる。そして幸福の源になる。(そして関係-----他のメンバーとの------でさえ目標になる)

 もちろん、目標を持つ時は、生き甲斐がある。本当に貴重だ。世界はここから利益を受けているかもしれない。しかし、もし目標が意義を探すだけの結果だったら、簡単に貴重ではなくなる。オタクになる。目標に意義を見出し、それを通して大きな悪がなされてきた。歴史はこういう例で満たされている。これは特に男性について真実だ。なぜなら、彼らは女性のように、満たされた関係を自然に見出せない。(男性には学ぶ余地がある)。

生き甲斐と幸福を与える目標の中で、宗教は最良だ。宗教の他の特徴は、------地域社会と超自然-------また、幸福を与える。宗教が善と悪の両方で、最も強力な力を持つこともあることは、驚くべきことではない。本当に、過去、宗教には功罪がある。最もメジャーな宗教は害より善を多く行っている。しかし、いくらかの大きな害も行っている。

その上、現代、個人の意義の源として宗教の弱体化は、祝福より、呪いを増やしている。伝統的な宗教の衰えで、数千万の人々は意義ある目標のため、どこかよそを求めている。そしてこれらのほとんどは、感情的な悪-----狂信的愛国主義、民族主義、共産主義、ナチのようなイデオロギー----------を創っている。一方、目標を、道徳のある外部の宗教に置いている個人もいる。20世紀の人々の道徳的な記録は、社会の目標を外部の宗教に与えた。これは普通恐ろしいことだ。

要約すると、目標は、大きな意義を与えるものだ。しかし、それが世界にとって最良なのは、目標自体ではなく、人間関係から不可欠な意義をその目標から得られる時だ。アドルフ ヒトラー、ジョセフ スターリン、のようなカルトリーダー、アメリカの連続殺人者の伝記は、実際、全て一匹狼のものだ

 

 

 卓越した意義

 ほとんどの思想家は、生き甲斐を見つけることが如何に大切か知っている。しかし、それは十分ではない。幸福になるために、思慮深い人は信じているに違いない。人生そのものに意義があると。

 現代の非宗教的な世界は、人々の幸福を度々傷つける。純粋に非宗教的な実在を理解することは、次の事を意味することができるだけだ。世界は、結局、目的も意義も持っていない。ここでは宇宙の見方でどちらが正確かは、議論しない。-----目的のある宇宙の宗教的理解、または、でたらめな宇宙の非宗教的な理解-------。これを知る方法はない。知りやすい事は2つの見方の成り行きだ。

 もし、創造物(人間)に意義と目的を吹き込む、神も、天も、案内の手もない場合、創造物は、その高い地位を保つことができない。意味を与える仕事、家族、友人、社会を多く持てば持つほど、非宗教的な宇宙は次の事を意味する。結局、これらの事に意味を与えるものは存在しない。絶望しないようにするためにこれらの意義を仕立てあげた。もし私たちが毎朝、鏡を見つめて、意味のない力、星屑の無秩序な産物だけをみて気付くとしたら、幸福になるのは困難だ。

 これはその理由だ。思想家の幸福にとって、宇宙の宗教的な知覚作用はとても大切だ。一方、現在の支配的な知識人の見方は次の通りと仮定する。思慮深い個人は、ほとんど宗教を必要としていない。結果、最も宗教を必要とするのは、思想家だ。少なくとも理論では、非思想家は、人生の喜びと生き甲斐を経験することによって、それだけで、幸福になることができる。しかし、思想家は知っている。喜びと生き甲斐だけでは、意義ある宇宙への人の熱望に答えない。

 

 

 まとめ 

 いつも尋ねなさい 「意義があるか?」

 善良な人になるためには、何かをする前に「それは正しいか?」 を自分に聞いてみる必要がある。体を健康にするためには、食べる前に「それは健康にいいか?」 と自問してみる必要がある。幸福になるためには、行動する前、「意義があるか?」を尋ねる必要がある。もちろん、問題なのは、良い行動、健康的な食べ物、意義ある振る舞いが、私たちの選択の中で誘惑的な事は滅多にない。------それは次のことを示すだけだ。もう一度。幸福のための最大の闘いは自分自身の性質との闘いだ。  

 

 

第21章  幸福はつくられるもの

 

 

 大切な事だが、幸福が自分の最も大切な価値基準であるなら、幸福にはなれない。他の事の副産物としてのみ、幸福は達成可能だ。そしてあなたは幸福*よりもっと大切なものをもっているに違いない。その上、自分自身を騙す事は不可能だ。例えば、次のようにいう事はできない。「幸福になるために、私は幸福よりXに価値を置くつもりだ」。しかし、あなたの心の中で、幸福はもっと価値をもち続けるようになる。

 幸福よりもっと大切な6つの価値を次に示す。----そしてそれは人々に大きな幸福をもたらす。

 

*今日の親に尋ねてみなさい。子供のために最も欲しいものは何か? 彼らの大多数は言うだろう。子供に幸せになって欲しいと。この趣旨として、子供の人生で最大の価値を幸福とする事によって、親たちは、不運にも子供たちが幸福な大人になるのをかなり難しくしている。親は子供が幸福になることを願っている。しかし、彼らは子供たちに、幸福な子供になるように、幸福よりもっと高い価値を信じさせる。

 

 

 

 

情熱的で意義のある目的

 最初に、最も明らかな幸福の源は、人々が大きな情熱を感じ、意義を与える目的だ。そのような目的の数はほとんど無限だ----------昆虫の研究から、臨終を迎えようとする野球選手まで。

 情熱的で、意義ある目的には、幸福になる力がある。子供ができるだけ多くの情熱を持てるようにする事は必須だ。より多くの情熱をもつと、---------物、仕事、趣味、他のどれか---------幸福も増える。しかし、もう一度、私たちは自分をだます事はできない。情熱は十分でない。そこには、本質的な価値と意義があるに違いない。人はテレビを見る情熱があるかもしれないが、多くの時間をテレビで過ごす事は、本質的な価値も意義もない。その結果、幸福にならない。

 テレビで普通にやっている信条や調査を私はめったに引用しない。その信条や調査とは、庶民感覚や人がすでに知っていることか、または、調査する人が見つけたがっているもの全てだ。しかし、幸福とテレビに関して、私は気付いていなかったことがあった。それは、ある日に一定時間テレビを見ると、幸福が実際に減ってしまうという調査だ。今、一定時間何かをした後、不幸になると仮定したとしよう。しかし、それはちがう。例えば、私たちのほとんどにとって、昆虫の研究は面白くはないが、テレビとちがって、価値と意義の両方がある。そのため、昆虫の生態研究が好きな人は、一定時間昆虫の研究をした後でも不幸にはならないだろう。一日に6時間(アメリカでのテレビの平均視聴時間)、昆虫の研究をする事は、実際に幸福を増やすことができる。------なぜなら、それは成長と知識をもたらすからだ。

 他の例を引用しよう。スポーツ選手でも幸福をもたらすことができる。---------次のことに感謝。スポーツの愛好、ゲームを通しての他の人と深い相互作用、スポーツの精神的・肉体的・感情的な挑戦、-----単なるスポーツファン(例えばスポーツ観戦)は一定時間過ごした後でも、幸福にならない。スポーツ観戦は面白いが、めったに意義を与えない。一つの証明は、ファンの中の莫大なスポーツ賭博だ。ギャンブルはスポーツ観戦に不足という別の意義を与える。一方、経営者、選手の育成、スポーツ記事にとっては、スポーツ観戦は意義がある。

 

 

 深遠さ (深遠さ;知識・知性・英知・洞察力の深さ)

 2番目の例。副産物として幸福を得られる目的。それは深遠さだ。現代では、「深遠さ」という言葉は、ほとんど使われない。または、人々が--------特に若い人々--------達成したいことについて考えるときでさえ、深遠さについては考えない。 「あなたにもたらされる深遠さはどのくらい大切だろう?」と人に尋ねると、たいてい戸惑って答える。「どういう意味だい?」

 より深遠な人になるという問題は、それだけで1冊の本に値する。私が信じる定義といくつかの例を与えよう。多分、深遠さを理解する最良の方法は、成長を考えることだ。私たちは成長しようと闘うとき、より深遠になる。------感情的、道徳的、精神的、知的、賢さにおける成長-------。どうか、注意ください。その闘いは、深遠さの一部なのだ。深遠さが簡単に得られる事は、あまりない。

 しかし、繰り返すと、人の性質は、私たちに対抗して働く。人の性質によって、私たちは当面の楽しみを探す気になる。深遠さを探す気にはならない。しかし、その性質を超越して深遠さを探す事は、闘いから大きな幸福を引き出せる。

 次の誰が、より知的に深遠な(そして幸福な)人か?-----毎晩よい本を読む人、コースの授業を受ける人、外国語または楽器演奏を学ぶ人、テレビを見る人。

 誰が感情的により深いか?------夫婦を続けること、子供を育てること、独身。

 誰が精神的により深いか?------自分自身について考える努力をする人、めったに反省しない人。

 例は至る所にある。面白いことでさえ深遠になれる。カードゲームをやると、くつろげる。或いは、成人の教育コースを取る時、面白いかどうかはあなた次第だ。「イージーリスニング」音楽を楽しむことができるし、クラシック音楽のようにより深い音楽を楽しもうとすることもできる。娯楽だけの映画を楽しめるし、娯楽と同時に考えさせる映画を見ることができる。娯楽小説を読めるし、娯楽と同時に知的で感情的な小説を読むことができる。

より深く面白いことを経験すると、見せ掛けのバラエティーに戻れなくなる。なぜなら、深遠さの報いは大きいからだ。ポピュラーとクラシック音楽の両方を楽しむ人に、どちらの報いがより大きいか聞いてみよう。(ポピュラー音楽の楽しみを深く評価して、こう言っている。)

深遠さの追求は、人であることを特徴づける一つだ。人生の高尚な目的の1つだ。そして、深遠さの追求は幸福をもたらす。本当に、深遠さへの旅は達成と同様に幸福をもたらす。そして深遠さには際限がない。その旅は永遠に終わらない。

 

 

賢明さ

副産物として幸福をもたらす3番目の目的は賢明さだ。賢明さは「理解していること」と定義できる。単に知っているだけというのと対照的だ。知識は素晴らしいことだが、それは賢明さと同じくらいの価値はない。そして、賢明さがもたらすような心の平安や幸福をもたらさない。コンピューターには膨大な知識があるが、賢明ではない。本当に、次の事は多くの人にとって正しい。もし知識の蓄積が賢明さをもたらすのなら、私たちは人類の歴史で最も賢明な時代に住んでいる事になる。そして過去に、今ほど多くの教育を受けた人はほとんどいなかった、私たちの祖先で、賢明だった人はいなかったことになる。しかし、多分、私たち全員は、限られた教育で賢明な人と、高い教育を受けて馬鹿な人を知っている。

 私は賢明になれる確実な方法をお教えできない。そんなものは恐らくないだろう。ある人は賢明に生まれてきたように見える。そして、ある人は知的に、感情的に努力して賢明になるように見える。一つ明らかな事は、賢明さを終生追求する事で、幸福な人生*が得られるということだ。

 

 

 透明性(明快さ)---自分と世間を理解する事

 副産物として幸福を生み出す目的の4番目は、透明性(明快さ)だ。自分と世間を理解せずに幸福になれると考えられがちだ。「無知は無常の幸福」という決まり文句を信じて----しかしこれは違う。伝統的な東洋人の考えから現代の西洋人の精神的考えまで、はびこっている考えがある。透明性(明快さ)は、苦痛の時でも、祝福される。呪われない。大多数の人は、次の事を考えないで、人生を過ごす。なぜ人生はそのように振舞っているのか、または何故彼らは彼ら自身がそのように振舞っているのか。しかし何故あなたの人生がそのように展開いているかを知る事は幸福の大きな源の一つだ。

一つの例は、悲劇に対処する能力は、説明を受けた時のほうが、大きくなる。

 

 

 *興味がある方のために、2つの意見を示す。大部分で現在の賢明さは衰えている。一つは教育の専門性だ。教育一般で、専門の狭い範囲が益々増え、知識を多く蓄えることが好きなことを諦めさせる。もう一つは、聖書の諺で断言されている。「神を畏敬する事に賢明さがある」。非宗教は大いに祝福されている。そして最も寛容に讃えられている。非宗教的な政府に感謝。しかし、賢明さは滅多にもたらさない。なぜか? 結局、卓越した人生の意義を認めないと、でたらめで、要領を得ない考えになってしまう。そして、でたらめと無意味からくる賢明さは、あまりない。思い浮かぶのは、ほとんどの宗教的な政府が寛容さを欠いている事だ。私たちは、ちょうど、賢明さを欠いた非宗教的なものを思い浮かべるべきだ。

 

 

 

 

 

例えば、飛行機事故の時、亡くなった乗客の友人と関係者は、何の説明もない時よりは、説明があった時のほうが感情的によい状態になる。もし透明性と理解が私たちの幸福にそれほど大切でないなら、事故の説明なんか、大切ではない。しかし説明があること(明快に)で、大きな変化がある。透明性(明快さ)の欠如は、生活が無秩序になる事を暗示する。無秩序はは無意味を、無意味は不幸を保証する。

 成長と深遠さで、あなたは理解すればするほど、もっと理解したくなる。あなたは知りたくなるだろう。何故腹が立ったのか、何故愛している人に怒鳴ったりしたのか、何故違ったタイプの人を愛し続けているのか。透明性(明快さ)は人生で起こる全ての事を変えることはできない。そして何も変わらない。しかし、それは私たちを受身の傍観者から役者へと変える。

 

 

 

 5番目の例。善の行いは、幸福をもたらす。私は、善と幸福の関係について別に書いている。----例えば、良い人々は他の良い人々を呼ぶ。そして、そのような人と一緒に過ごすことは幸福を増加させる。良い事をする人、より大切な目標である良い性格を持つ人は、「副産物の幸福」を得る。善の追求からもたらされる心の平安と価値のある感覚は、他のものでは得られない。

 

 

 超自然を追求する

 最後の例は、多分最も普遍的な事-----超自然の追求----だ。歴史を通して、ほとんどの人は人生は非常に短命であることに気付いていた。私たちは自分の意思に反して、この世に到着し、短い時間過ごし、そして去っていく。今日、私たちは、巨大な宇宙の極微量の小さい点でしかない事を知っている。したがって、ますます私たちは意義を必要とする。その意義は、永遠に私たちをしのぐものを信じることからしか得られない。

 次のように主張する人は多いだろう。超自然はないし、宗教は大きくは馬鹿げていると。しかし、宗教ほど、精神の平和をもたらす能力のある物はない、という事に反対できる議論はあまりない。人には次のものがある。意義、秩序、地域社会、宗教の提供する答え。

 

第22章  正しい見方の開発:人生観の育成

 

 私たちは、どのくらい不幸になるかを自分で決めている。

 ある寒い冬の夜、友人のジョセフ・テルシュキンは講演に行く途中、車のタイヤがパンクしてしまった。トラックで牽引してもらう時間はなかったので、ジョセフは寒さに耐えて自分でタイヤを交換しようとした。しかし、だめだった。

 ジョセフは、大切な講演をはずしてしまい、聴衆をがっかりさせ、金(収入)をなくした。悲惨な夜だった。しかし、次の日、このことを話しているとき、彼は特に不幸ではなかった。

 「僕は確信したよ。パンクは誰にでもあるんだって。」彼は語った。

「今まで1回もパンクしたことなかったんだ」

 多くの人は、このような状況では、ジョセフより、かなり不幸になっていただろう。何故彼はそうでないのか? なぜなら、ジョセフの人生観は、彼に正しい見方を与えるからだ。

 私たちは、自分がどのくらい不幸になるかを自分で決めている。多くの人は気付いていない事だが、出来事に対する感情的な反応は自分で決める事ができる。ほとんどの人は出来事が彼らを不幸にすると考えている。つまり、彼らの幸福のレベルは本質的に、彼らに起こった事によって決まると。しかし、違う。

 考えてみよう。例えば、クレジットカード、免許証、お金と、大切な領収書が入った財布を失った人が2人いる。1人は一週間ひどく落ち込む。もう1人は1日落ち込む。失った財布は、それぞれ同じくらい大切だったとしよう。何故1人はもう1人より長い時間不幸だったのだろう? なぜなら、彼は自分を不幸にしたのだ。そして彼が不幸になった主な理由は、起こった事に対する正しい見方を欠いていたことだ。

 私が書いてきた幸福に関する研究で、最も際立った結論の一つ。それは、生活環境と、どのくらい幸福かという事は、ほとんど相関がない。少し考えるとわかる。私たちは、比較的安易な人生を送っていて、本質的に不幸な人を知っている。そして大変な活動をし、比較的高いレベルの幸福を維持している人もいる。

 これに対する一つの例は、生まれるとき、または幼いころ身についた感情的で、精神的な性質だ。しかし、内面の性質は、人生への反応を違ったように表現しているというだけではない。少なくとも度々、彼らの幸福のレベルを決めるのは、その態度と人生観だ。

 

 

 人生観に必要なもの

 何故ある人は多くの競争相手があるのに幸福で、ある人は、無数の祝福にもかかわらず、不幸なのか。もし内面の性質がこの事を説明するだけだったら、精神療法、宗教、人生観は全て、役に立たない。このような本はいうまでもない。そして、幸福は単純な質問で決まることになる。内面の性質=幸福 または 不幸。 幸福という点からみると、私たちは出来事に反応する複雑にプログラムされたコンピューターと同じだ。コンピューターは同じように作動する。

 私たちはプログラムされたコンピューターではない。出来事にどのように反応するかを決めることができる。そして、性質以上のよりどころから、この決定を行う。態度と正しい見方、またはもっと正確には人生観によって、私たちの反応は決まる。それはドイツでは、Weltanschauung(世界観)として知られている。

 人生の仕打ちにどのように反応するか。人生観なしでは、わかり得ない。私たちの幸福は、あがったり下がったりする。そして、その日の出来事と直接の感情によって決まる。その感情は、落ち着いた熟考によってより、むしろ彼らが引き出したものだ。出来事を正しい見方で捕らえることはできないと、-----それは人生観からくる-----出来事のなすがままになる。私たちの船には行き先とコンパスがなくなる。 

よくあることだが、ある四十歳代の男が、弟を亡くした。突然の心臓発作だ。親友であり、最愛の唯一人の弟であった。彼は、私に打ち明けた。神を完全に信じられなくなったと。彼は宗教団体の活動に決して熱心ではなかったが、毎日、神にお祈りをしていたという。しかし、今、彼の弟は、若い年齢で死んでしまった。彼は神を見限った。

 私は尋ねた。弟が亡くなる前、神の存在で、不公正な死に甘んじる難題と闘ったことがあったかどうか。結果、弟以外に、多くの男女が若くして亡くなっている。悲しみに打たれた、愛するものを後に残していってしまう。彼らを亡くしたことで、神をどのように理解するのか?

 彼は、その問題について本当に考えた事がなかった事を認めた。他人の死でも、彼は、どういうものか、いつも神と親密だと感じていた。そのようなことは、彼には起こらなかった。

 十年後の今でも、彼は変わらない。まだ、神に感謝しない。

 私はこの男が特に知的で愛他主義だということを知っている。したがって、この問題は馬鹿げた自己中心主義の一つではない。この男の問題は次の通りだ。彼は神と不公正な苦しみ(弁神論として知られている。悪の存在が神の属性と矛盾しないと主張する説)の問題を考えなかった。したがって、人生観は育たなかった。このような出来事に対して彼は準備できなかった。彼がそう考えていれば、彼と神との関係も死ななかっただろう。

 ほとんどの人は悲劇に打たれるまで、どのようにして悲劇になったのかを考えない。その時、ショックは彼らの感情的、精神的システムで吸収するにはあまりに大きすぎる。それが常に働かなくても、人生観は当然、絶望に反対して植え付けられると見るべきである。多くの人は大きな悲劇に直面すると、その信頼を保持し、絶望を避ける。------そして、彼らは、人生観を持っている事に大いに感謝する。

 カップルにとって、人生で最も苦痛なこと、子供の死。私が、人生観が不可欠だとわかった最たるものだ。ほとんどのカップルは子供の死の後、離婚している。この事を知ってから、ラジオショーでこの問題を取り上げた。そこで、子供を失った後、一緒に過ごすカップルに尋ねた。どうして、子供を失った後、一緒に暮らせるのか? 彼らに素晴らしい精神的、感情的要素があったとしても、一つの結論は、ほとんどのカップルに当てはまるようだ。カップルは、完全に存続し、幸福のために努力することが可能でさえある。その悲劇の前-----そして、その後でさえ------彼らは人生観を発展させ、その悲劇に適合できるようにした。

 人生観から得られる大局観(物事を全体的に把握する能力)は悲劇を取り扱うときだけ必要というわけではない。日常的な苦痛に対しても適用できる。私の友人のジョセフは、不幸な事で夜を破壊しないように出来る。なぜなら、彼には大局観(物事を全体的に把握する能力)を与え得る人生観がある。彼は信じている。私たちはみんな「車のパンクの割り当て」を持っている。終生、私たちは、機会を失う経験をし続けるだろう。パンク、飛行機の欠航、価値の置き誤り、事故、財布の紛失、骨折、多くの物は苦痛だが、悲劇ではない。

 

 

 大局観(物事を全体的に把握する能力)を与える他のもの

 ジョセフの「パンクの割り当て」は人生観の一例だ。それによって、私たちは大局観を持てる。そして、困難と対処することができる。ここに他の7つの例がある。広く人生観を含んでいる。困難な時を経ることによって、人生観を得る事ができる。

 

 

 「これも通過するだろう」

 物語を話そう。賢明なソロモン王は、宝石商に、魔法の指輪を合わせる様に頼んだ。その指輪は、落ち込んでいるときは励ましてくれ、うれしすぎる時は、落ち着かせる力がある。宝石商はそのような指輪を持ってきた。そこには3つのヘブライ語が彫られていた。-gam zu ya’avor(これも通過するだろう)

 困難は過ぎ去るという事。これを知ることで、人生の難しさに対処する事が可能になる。結果、誰でもこの姿勢を取るべきだ。カップルは、例えば、次の事を認めるようになるべきだ。彼らは難局を過ごしている時、コミュニケーションを維持し、特に馬鹿な破壊的なことを言ったり、行ったりしない時は、パス(合格)だろう。そしてカップルは、より健康で強くなる。

難しい時期がある。例えば、多くの十代の親は、日常的な基準で、自分を安心させるべきだ。十代は実際に終わり、彼らとその子供は、年を重ねる。多分、次のような事を経験している。それは、かつて、私の講義に出席した親によって、提供された。

 講義の後、この男は私のところに来て話した。彼は正確に示した。彼らが十代になる時、若い人に何が起こったか。子供が13歳になる時、彼は説明した。宇宙人が来る。そして若い人の脳を取り去り、宇宙人の脳と入れ替える。そして、子供の18歳の誕生日の後のある時、宇宙人はもとの脳を置いていく。これは、「これも通過するだろう」という態度を説明する例だ。

 

 「私を殺さないものは、私をより強くする。」

 ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェ(私の好きな思想家ではないが、私たちが好きでない人々でさえ、賢明な考えに近づける)が言っている。「私を殺さないものは私をより強くする」

 もちろん、これは常に正しいというわけではない。人々に起こるあることは、恐ろしすぎるため弱くなってしまい、強くならない。そのような恐怖は比較的珍しい。しかし、ほとんどの人々は、逆境に直面して生き残ることから、より強くなる。この事を知る事はトラウマを元通りにしない。しかし、それは次の事を意味する。積極的な事----強さと成長-----は消極的な開発と異なるものから来ることが出来る。

 

 

 起こることに対するプラスの見方がある

ここまで述べてきたことと関係する事は人生観だ。全てのマイナスの出来事のなかで、プラスの事を見つけ、創り出され得る。これは私の人生の見方の中心だ。そして幸福への核心だ(次の章は、この概要を展開している。)

 

 

 「生きる事は耐えること」

 ロシア作家フィオドール・ドストエフスキーに戻ると、彼は次のように書いている。「生きる事は耐えることだ」。これは当時の19世紀ロシアでは全く正しかった(20世紀のロシアでも正しい)。そして人類の歴史の大半でも正しかった。しかし、私の文筆業としての人生では正しくなかった。他の数億人の人生でも正しくない。特に、現代の先進諸国では、そうだ。この見方は、賢明で有用だ。

 この見方は明らかに価値ある人生観は耐えることの中にある。もしあなたが本当に生きる事は耐えることだと思うのなら、耐える事は普通のことで、ショックは癒されない。

 

 

 神は不公正な苦痛を許す

 弁神論(悪の存在が神の神聖と矛盾しないとする説)の問題と格闘する時、最終の答えはない。しかし、実行可能な人生観はある。

 1つは、神は自然にそのコースを取らせている。意味するところは、神は、がん細胞を転移させる。それは善良な人も罪がある人も同じだ。もしそうでないなら、善良でいることは強調されないだろう-----みんな病気をさけるために善良になる。

 もう1つは、神は、悪人が善人を傷つけるのを許す。なぜなら、神は道徳的な選択の自由を人に与えた。それによって、私たちは、ロボットではなく、人になる。

 3番目は、神の意思だ。私たちに何が起ころうと、私たちは苦痛に耐えているかもしれない。私たちが何故苦痛に耐えているのか知らなくても、神はその理由を知っている。これは、私の個人の意見ではない。しかし、それは、確かに多くの人々に苦痛に耐える実行可能な方法を与えている。

 神の不公正な苦痛を諦める4つめ。それは、神は、どのような苦痛も望んでいないと仮定することだ。しかし私たちが楽しみ、頼りにして、気にかかる神がいる平和を知っているときも、神はそこにいる。そして全て、無秩序ではない。

 

 

平凡な苦痛を与えられることで、私は恵まれている

 私は70カ国以上旅行した。そして見てきた苦痛に対して、深い衝撃を受けた。多くの人を苦しめる苦痛や、次のような現代の恐怖----ホロコースト、共産主義、ルワンダ、カンボジア、アルジェリアの虐殺。これらを見ると、はるかに小さな問題のために不幸になることはできなくなる。

 

 

死後の世界を信じる

私たちの考えや行動はこの世に集中されるべきだ。しかし、死後に何かを置く人生観では、最大の正義がどういうものかが明らかになる。その人生観では、他の考え方よりも、苦痛に対処できるようになる。死後の世界が実際にあるかどうか、もちろん、証明できても、できなくても、その存在の議論は、この本の範囲ではない。私は、死後の世界を信じるようになっている。なぜなら、公正な神が不公正な世界を創り、非物質的な神が物質的な世界だけを創ったということは、信じられない。しかし、公正で非物質的な神の存在を信じない人、したがって、死後の世界を信じない人でさえ、次の事を認めるに違いない。つまり、一つのことを信じる人は、不公正な苦痛を含む実行可能な考えをもつようになる。そして、もっと幸福になる。今の人生が全てだと信じる事と、不公正にひどい苦痛に耐える人には、楽しみがなく、幸福の秘策ではない。

 

 要約すると、私たちが人生観の意味を理解できることによって、そして、人生のマイナスでどのくらい不幸になるかを自分で決めることが出来るようになることによって、人生観は意味を与える。このように、人生観は、内面の性質より大きい。そして、どのくらい幸福になるか、どのくらい不幸になるかを決める。年齢は問題ではない。人生観を発展させるのに遅すぎる事はない。しかし、親は自分の人生観を子供に与える事によって、価値のないものを子供たちに残すことがある。親が与える事ができるどんなものよりも、それは子供たちの将来の幸福を確かなものにする。

 

 

第23章 プラスの面を見つける

 

 

 例1

 1階のアパート

 コロンビア大学の大学院生として、マンハッタンでアパートを探していたとき、私が借りられるのは、1階のアパートだけだった。私はそれを借りた。ニューヨーカーにそのことを説明すると、彼らはたじろいだ。大失敗だ、とみんなが言った。1階のアパートはいやがられるのだ。-----夜間の強盗に遭いやすい。彼らの反応、そして私が借りた地域が大変危険な地域だったという事実。この選択では、不幸になりやすかった。

 結局、私は彼らのいうことを聞かなかった。不幸になる代わりに、1階のアパートが最善の選択だと思える理由をいろいろ考えた。ほとんどのアパートの住人と違って、エレベーターで待つことはない。すぐ近くに管理人がいる。管理人は次の階に住んでいた。簡単で速い外出と帰宅。エレベーターが壊れた時、階段を上る心配はない。

 結果、私の選択と心配した事を後悔することなく、引っ越した日から、そのアパートが気に入った。(その上、強盗に遭わなかった。そして私は管理人の息子の兄貴分になった)。

 私は成長し、ほとんど全ての場面でプラスの面を見つけようとする、生まれつきの恵まれた傾向に磨きをかけた。幸福になるため、自分を騙すやり方を持つ傾向を非難する人もいる。しかし彼らはポイントを間違えている。マイナスの状況でも、ほとんどいつも、プラスの要素はある。プラスの状況でも、ほとんどいつもマイナスの見方があるのと同じだ。プラスの面をみつける事とそれを強調することは、自分をだます形が違う。

 

 

 例2

 退屈でつまらないデート

 私によくある別の例。独身だった時、退屈なデートの問題に直面した。一般に独身の者は、これを克服できない障害のように見る。いうまでもなく、それは全くの時間の浪費だ。金を失うより時間を失う事をいつも心配している人のように、そして、疑いなく4年間ほとんど退屈だった。-----そして私は、完全にきらいな退屈なデートの候補者になった。しかし、正直に言える事は、最も退屈なデートでさえ、時間の浪費だったとは感じていない。

 全ての状況で、プラスの面を見つけるという考えを用いたおかげで、私は退屈なデートをひっくり返した。-----特に最も退屈なデート-----で経験をつんだ。私は人を退屈にするものを見つける事に決めた。これは皮肉でも、くさしているわけでもない。----退屈なことは性格の欠点ではない(事実、悪人で得に面白い人も多い)。完全なマイナスの中にプラス面を見つける場面に、どうすれば方向転換できるかを把握するためだ。

 私はデートで退屈になればなるほど、彼女に質問を浴びせた。退屈な人の本質と性質を判定するためだ。-----そして、面白い人についても、また、同様にした。私は、その領域について、多くのことを学んだと思う。そして、後に、若い人への講義でこの洞察を応用した。---------彼らがもっと愉快な人々になることを期待して。私は、他のことの合間にも学んだ。それは、ある人々は情熱が欠けている。そして、情熱の欠如は人々を面白くなくさせる。自己反省の欠如は人々を退屈にさせる。誰かにとってのみ、興味をひくこと、または、大きなテーマは、人々を退屈にする。そして私は学んだ。どのように、そして、どうして、退屈になったか。手短に言うと、退屈なデートから私は成長したのだった。もし、あなたが成長を評価するなら、実際に全ての場面を評価するだろう。なぜなら、あなたが学べなくて、成長できないような状況は、あまりないからだ。

 つまらないデートの時、女性は必ずしも退屈な人ではないが、私と共通の話題がほとんどないか、稀に嫌われた場合だ。私はこれらのデートからも学んだ。初めに、私について。なぜ、この女性とは、あわないのか? 彼女と私がこんなに違っているのは、何のためか? この女性をもっと好きになれなくしている事で、私に欠けているものは何か?

 私たちはつまらない、または、退屈なデートを利用することができる。ディナーパーティー、人々について学ぶミーティング。一般に、私たちは社会的に結びついている。退屈でつまらないミーティングは、従って、10分と一緒にすごさない人々について学ぶ稀な機会だ。 

 

 

 成長を評価しよう。そして実際に全ての状況を評価する。

 もちろん、1階のアパートとつまらないデートは人生の最も困難な状況ではない。しかし、実際、全ての状況でプラス面を見つけられるという法則は、ほとんどの場合は当てはまる。

 他の例を見る前に、最後に、次の事実を指摘しておく。実際に全ての状況でよい事を見つける事が出来るということは、次の考えではない。「全ての事は最善へ向かう」。この考えは、不幸な事にナンセンスだ。最善にならない事例も数え切れないくらいある。

これを否定することは、あまりにも多くの人が経験している現実の恐怖を否定する事になる。殺人で亡くなった犠牲者は「最善へ向かっている」と思えるだろうか? ナチズム、クメール・ルージュ、毛沢東の文化革命、ルワンダの大虐殺、20世紀の最もよく知られた恐怖の数例に過ぎない。それらの極悪による犠牲者や、彼らを愛していた人々対してなされたことについて、彼らは、「最善にむけて」と見るだろうか? もしあなたの子供が酒酔いドライバーに殺されれば、「最善に向けて」といえるだろうか?

 上述のように、私たちが遭遇する最悪の状況には、まだ何か良いことを搾り出せる余地がある。または、良いことを搾り出す余地がなかったとしても、良い方向へ転換できる(諺「レモンも搾ればレモネードになる」)。17章で述べたように、私の甥ジョシュア プレガーはひどい状況を変えた。-----トラックにぶつけられた後、麻痺させられた------大変積極的な方向へいった。ジョシュアの将来計画は、医者になり、トランペットを上手に演奏し、優れた陸上競技選手になることだった。事故の後、彼は医者になる計画を捨てた。もはやトランペットは演奏できず、どんなスポーツにも参加できなくなった。一方、事故の結果、彼は興味のあることを開発して、自分の能力------書くことのような------を見つけるように努めた。しかし、興味のある事を見つけ、開発できないかもしれなかった。何年か後、彼は洞察と賢明さを得た。そして彼は多くの麻痺した犠牲者を救った。今、ウオールストリートジャーナルの記者になり、恐らく、それまでより幸福になっている。彼は悪い状況をプラスの状況に変えた。(一時の悪い事を拒絶することを除いて)。

 もし足の骨を折って、1ヶ月寝ることになったら、大切な読書をするチャンスだと考えよう。もし配偶者を見つけられなかったら、友情を続け、深めるチャンスだと考えよう。そして、もっと働き、あなたの好きな趣味を開発するチャンスと考えよう。もし結婚していて、子供を身ごもることが出来ないで、子供を養子にもらわないことにするのなら(不合理だが、よくある普通の決断だ)*、結婚生活に集中して、他人の子供にやさしい大人になるチャンスだと考えよう。子供たちは、得ることができる全ての大人の愛を必要としている。そして、親にはできない方法で、親を除いて、もっともよく子供に接する。

 ラビ(ユダヤ教の聖職者)のハロルド クシュナーは、長く重い病のために息子を失った。悲しむだけではなく(失った事を悲しむ事は幸福には不可欠)、彼は強いショックを受け、この悲惨な病に苦しんでいる百万の人々を救った。--------彼の本「善良な人に悪い事が起こる時」と、彼の講演を通して。

 プラス面を見つけようとする事は、実際に全ての状況で祝福される事がわかる。すべての状況で嫌な面を見つけようとする事は、災いの基になるだろう。幸福自体について、これは主にあなたが決めていることなのだ。

 

 

 

 

 

 *子供を養子にもらいたくない人の決断は、多くの理由から正しくない。そして、私の本「2回考えなさい」の中の「赤ちゃんのリチャード」というエッセイの中で、彼らは語っている。4歳の男の子が1995年にイリノイ州スプリーム裁判所の命令で彼の親から連れてこられた。そして、生みの父親に決して男の子に会わないようにという判決だった。ここでは次のように言えば十分、ということに留めておこう。生まれ変わりを養子にしないという決断は多少次の感じや考えに根付いている。--------養子にもらった子供を実の子供と同じくらいに愛せない(完全に間違い)、また、私たちは実の子供を持っている時、子供の遺伝子は共同出資されているので、遺伝的に、感情的、精神的問題が起こりにくいと思う。(ほとんど間違い:私たちは自分の遺伝子についてよく知らない。そして、私たちが知っている範囲では、ほとんど知らないことが、遺伝子より有望だという事はあまりない。)

 

 

 

第24章  緊張を受け入れる

 

 私たちは苦痛を好まない。そして、それを避けようとしている。しかし、前に議論したように、苦痛から逃げようとすると、不幸な人生になる。

 緊張は良い例だ。緊張は苦痛になるので、人はそれを避けようとする。そして、そうすることで、幸福になるチャンスが減っている。にもかかわらず、緊張はいかなる成長にも欠かせないものだ。緊張のない人生は浅薄だ。緊張がないというのは、人の人生というよりは動物か植物の特徴だ。もし、あなたが人生に緊張をもっているなら、それは、競争する必要があることを意味している。------それは人生全体の特徴であって、不幸な人生ではない。

 私たちは緊張を望んでいない。しかし、一時の反省の後、緊張がない事はひどいことだということに気がつく。例えば、性的な緊張を望まないだろうか? カップルにとって、性的な緊張は、経験しないより経験したほうが、良くないだろうか? 結婚生活以外で性的な緊張を経験したくないとさえ思っているだろうか? 例えば、配偶者以外の人と性的な刺激があるが、行動をおこしていないようなこと。 これは、元気で活気があることではないのか? 私の父、マックス プレガーは次のように言うのが好きだった(母も賛成している)。「もし私が見ようとしなくなったら、葬ってくれ」 私たちは仕事で緊張したくないか? 今まで、緊張無しで何かを成し遂げた人はいるか? 

 人生で熱中すればするほど、人生はより豊かになり、経験する緊張は多くなるだろう。緊張を避ける唯一の方法は、自分の感覚を麻痺させることだ(麻薬中毒の魅力だ)または、競争する必要はない、単調な人生を送ることだ。成熟と幸福は、緊張することを要求する。実はありがたいものなのだ。私たちが望まないものは、不必要な緊張、または、普段感じている不必要なストレスや悩みだ。

 

 

 ストレス または 悩み

 両方とも苦痛で避けられないことだが、必要な緊張と不必要な緊張にも大きな違いが有る。私たちがストレスまたは、悩みと呼んでいるものがそうだ。緊張は普通、活気や健康の印だ。そして、その結果、不幸にはならない。一方、慢性的なストレス、悩みは普通、体にも幸福にも、不健康だ。従って、出来るだけ減らすべきだ。

 悩み、またはストレスは、殺していく----タバコのように。他にも多くの事がある。しかし、ストレスはタバコより価値がある。少なくともタバコは楽しみを与えるが、その前に喫煙者の3人に1人は早死にする。悩みは、一方、苦痛を与えるだけだ。そして恐らくタバコよりもっと多くの人を殺している。

 もしあなたが大きなストレスがあるなら、できるだけ正確に原因を突き止め、ストレスを取り除くために出来る事をすべきだ。そしてストレスと付き合う方法、無視する方法、少なくとも最小にして生きる方法を学ぶべきだ。

 結局、どのようにして悩みと緊張を区別できるのか? 2つの判断基準を示す。1つめは、あなたはそれによって成長しているか? もし成長しているのなら、あなたが経験する事は必要な緊張と見なせる。もし成長していないなら、苦しんでいるだけで、不健全な悩みだ。2番目に、もしあなたが経験していることが、幸福につながらないなら、それは悩みであって、健全な緊張ではない。例えば、毎日3時間のラジオショーをゲストなしでやると、不安が増す。しかし、この不安は素晴らしいショーを創り出す助けになる。それは結局、私にとって、幸福の源だ。一方、私が信じているショーの話題のために経営側と闘わなければいけない時、それは単なる悩みだ。そして私は自分の幸福のレベルを維持しようと努力しなければならない。

 緊張で満たされた人生は、本当に幸福な人生になることがある。悩みかストレスで満たされた人生はそうなるはずがない。

 

 

第25章 全てのものには代償がある

----それが何かを知る

 

 

無料のランチはない。

かつて、ノーベル経済学賞を受賞したミルトン フリードマンは、経済のエッセンスを1行で言えるかどうか訊かれた。 「無料のランチはない」と彼は答えた。

 この答えは人生で、経済が何なのかを理解するのにちょうどよい。全てのものには代償がある。幸福に関して、人生の原理原則と関係する3つの法則がある。

1 人生で全てのものには代償がある事を認める。

2 その代償が望む量とあうかどうかを決める。

 3 その代償を支払うか、望むのを止めるかを選ぶ。

 この3つの法則全てに従わなければ、幸福を得るのは不可能だ。-------なぜなら、あなたは、持ち物、する事すべてについて支払う代償に常に腹を立てるだろう。

 

 

 結婚すること、結婚しないこと

 古典的な例だが、結婚するか、独身でいるかという問題に払われる代償が如何に大事かということだ。それぞれに大きな利益と代償がある。

 もし、独身でいることに決めたのであれば、明らかに有利な点がある。-------愉快になったり、愉快なことをする自由がもっと多くなる。他の1人の悪い気分や変な癖に我慢しなくてすむ。(そして、他の1人もあなたの悪い気分や変な癖に会わなくてすむ)。そして、誰とでもデートできる。

 一方、結婚する事にも明らかな利点がある。-----人生のパートナーとしてデートからの解放。他の1人から長期間、もたらさせる唯一の場面、安定性、成長。

 どちらの選択からも全ての利点を得る事はできない。素晴らしい結婚は、相当な自由が得られる。しかし、言うまでもなく、どんなに自由でも、独身生活の自由には及ばない。しかし、いくら独身での関係が気に入っていても、深遠さの点でよい結婚生活にはおよばない。

 結婚生活での共通の問題は、人生のほかの多くの領域でもそうだが、結婚生活と独身生活の利点を両方とも欲しがる人があまりにも多すぎることだ。-------結婚する事に対して代償を払おうとしない。これらの人々は----普通は男性------安心、愛、家族を欲しがる。これは結婚生活の結果と、独身生活の特徴である個人的、性的自由の結果だ。

 これが不可能である事を認めると一歩前進する。いくらかの代償を支払う事は避けられない。賢明な人は結婚と独身の利点をはかりにかけるだろう。必要なもの、性質、価値を勘定して、決定する。そして一度決定すると、支払う代償が如何ほどであろうと、後悔しないだろう。

 述べてきたように、私自身の人生では、私は長い間、独身でいる自由を気に入っていた。(32歳まで結婚しなかった)。しかし、いつも結婚したいと思っていた。第一に子供が欲しかった。そして、結婚しないで子供を持つ事は間違いだと、思っていた。子供は結婚した父母で人生をスタートするべきだ。2番目に、もし独身のままだと、結婚した男性と同じくらいには成長しないだろうということが十分わかっていた。私はジョージ ギルダーのすばらしい独身男の叙述にある 「裸の遊牧民」 の生活をしたかった。女性から女性へ、ベッドからベッドへ渡り歩きたかった。官能的な刺激的な人生のために。

 ついに結婚した時、私は、結婚に対して、そして独身に対して支払う代償を考えた後、そうしたのだった。代償を払うという合理主義的な考えで結婚することはロマンチックでないと思う人がいるかもしれない。しかし、分別のある代償の支払いという考えはロマンチックなだけの結婚よりも、変わらない愛になる。どの結婚でも、多かれ少なかれ、愛がある間は多少の情熱がある。愛と情熱が少ない時、合理主義的な能力は、なぜ結婚したのか思い出させる。

 一方、私には、仲の良い独身の友人が2人いた。彼らは結婚制度に対して深い関心を持っていた。そして、結婚しないことに対する代償をわかっていた。しかし、彼らは自分自身を知っていて、結婚の代償は高すぎると判断した。

 ほとんどの独身は、幸福そうな結婚したカップルを見て、時々、自分が正しい選択をしたかどうか疑問に思う。これは自然だ。そして、結婚している人は次の事を認める必要がある。時々独身になりたいと思う事は完全にノーマルで、よい結婚生活と両立できる。

 あなたが結婚する事を選んでも独身でいる事を選んでも、どちらのケースでも支払わなければならない代償を知っている事で、代償を支払う事ができるようになる。結局支払わなければならない時は、もっと受け入れやすくなり、怒りは遥かに少なくなる。

 

 

 子供を持つこと、持たないこと

 子供を持つという決断は、支払い可能な代償として多くあることがわかるに違いない別の例だ。代償を考えること無しに結婚する事は、子供を持つ事の代償を強いられるということに気付くことなしに親になるのと同じくらい危険だ。結婚は、結局、破綻することもある。そして、その複雑な人々は追い払われる事がある。しかし、親子関係は解消されないかもしれない。もし、親が子供を捨て去っても、子供は「追い払われる」ことができない。

 なぜ、自然は、簡単に楽しく子供を妊娠させるのか。これを理解するのは簡単だ。----自然は種が存続するように配慮している。しかし、自然は、個々の種の幸福には配慮していない。たやすく子供が出来る事は多くの人にとって悲劇になる。単に性的な喜びの結果、親になる人があまりにも多すぎる。親の責任について深く考えた結果ではない。または性行為で結ばれた代償になっている。私の父はよく言っていた。「プレッツェル(菓子)を売るには免許(許可)がいる。しかしどんな馬鹿でも子供は持てる。」

 子供を持つと莫大な代価が払われる。そして子供を持たなくても莫大な代価が払われる。これらの代価には、人生の他のどんな決定より大きな配慮が必要だ。決定がどうであれ、それぞれのケースで支払われる代価は法外なものだ。これは私が子供を持つように勧めようとしなかった理由だ。しかし私は多くの人に(特に男性に)結婚するように勧めた。社会のために、個人のために、圧倒的大多数の人は結婚すべきだ。しかし、社会のため、込み入った個人のため、親になるべきでない人はたくさんいる。

 

 

 子供を持つことの代償  子供を持つことで支払われる代価は家族の章で議論している。しかしここで手短に言い直すと、

 ・子供はどの結婚生活にも大きな挑戦をもたらす。両親または結婚生活が良くなるかどうかは問題ではない。

     子供は両親の個人的な自由を大きく減らす。

     子供はカップルがそれぞれに多大な時間を過ごすことを阻む。

 ・子供は親にずっと弱点を与え続ける。子供があなたの人生に入ってきた瞬間から、あなたが如何に傷つきやすくなったかが明らかになる。子供の苦痛はあなたの苦痛よりもっと大きい。あなたは子供の事を心配する。子供の幸福、健康、知性、成功、友人、結婚相手、傷つける人、もちろん死についても。

     子供には大金がかかる。

 

 

子供を持たないことの代償   一方、子供を持たない事の代償も大きい----そして私にとってはあまりに大きすぎる。それは私が父親になることにした理由だ。子供を持たない事で次の機会を持てなくなる。

 

 ・子供に愛を与えること。多くの愛を与えてもらう人で、子供より望まれる人はいない。

 ・子供の愛を受け取る事。あなたの所に走ってきて抱きつく子供がいる家に帰ること。これは、手に入れることができる最も感動的な経験だ。

     親を経験すること。この経験は人生と人々についての比類のない教師になる。

     あなたが子供の時、両親から受け取らなかったかもしれない事を他の子供に与える事。

私の世代の多くの男性は、例えば、子供に感情を露骨に示す父親はほとんどいない時代に育った。子供に愛情表現することは感情的な欠陥を満たす男性にとって、良い機会だ。

     大人として、家族をつくり、経験すること。

     孫を持つこと。

     他の世代に宗教と価値を手渡すこと(しかし、これは子供を持たなくてもできる)。

 

子供なしでは、これらのいずれも持つ事ができないという代償がある。私の子供たちのうちの誰についても、事が難しくなる時、私は次の事を思い出す事ができた。私は大きな代償があることをわかって父親になることにしたのだと。あなたは有利な点をわかっていて、代償を支払うことにしたと思うとき、人生の問題を受け入れるのに、遥かに良いところに位置している。

 

 

 

 全ての事に当てはまる法則

 全ての事には代価があるという法則の大切さは、恐らく誇張される事はない。従って、ほとんどの人は普段それに当てはまっていないと不幸になる。このことを明らかにしよう。この法則は人々が引き受ける全ての行動に適用される。もしあなたが下した決断に何の代償もなかったと考えるのなら、その問題を考えていなかったということだ。

 ある人は失望したとき、いつも、次のように問い続けているかもしれない。「私が支払う代償はどのくらいなの?」 失望だけではない。結果、あなたの幸福に計り知れない加算がある。第一に、あなたは代償を支払わねばならない事に気づいたとき、ショックと失望による不幸を防ぐのに多大な助けになる。2番目に、この法則は次の事を明らかにする。あなたが選んだことは何でも代償になる。多分、より大きな代償だ。

 あなたは行うこと全てに代償を支払わねばならないことを知る事は、------または行わない事を選ぶ事は----あなたが買うもの全てに代価を支払わねばならない事を知るより失望しない。あなたが「代価はいくら?」と訊けば訊くほど、人生の問題を取り扱う準備が整う。

 あなたが行うこと全てにこの法則を当てはめれば、2、3日で良い考えが思い浮かび、取るに足らないような事になる。これは馬鹿げているが、本当の例だ。もし私がいつも歯を糸楊枝で磨くと仮定すると、何かを楽しめなかった時間という代価は払っている事になる。また、できるだけ早くベッドで疲れた体を休める事ができないという代価を払っている事になる。一方、もし糸楊枝で歯を磨かないとしたら、ある日、歯肉炎や虫歯で苦痛を与えられるかもしれない。どちらの代価を払いたいか?

 別の例がある。もし私が、今夜2、3時間テレビを見たとする。私はそれを楽しむだろう。そしてリラックスする。一方、私は多分、翌朝、見たもの全てを忘れてしまう。そして値打ちのある時間ではなかったと思うかもしれない。そのうえ、私は次の時間をとれなくなるだろう。子供、妻、友人、またはほかの人と過ごす時間、良い本を読む時間、何かを書く時間。

 仕事主義を選ぶとき、代価の質問は、不可欠だ。しかし多くの人は、その姿勢をとらない。彼らは自分が選んだ職業のプラス面を見ないで、度々、経済的な、そして魅力的な収入だけを見る。例えば、今のアメリカで、法律で成功を求める事は一般的だ。(最近の法科大学の入学者比率では、2076年に全てのアメリカ人が弁護士になると言われている)。しかし法律を生業にするのを止める多数の人に基礎が置かれているため、多くの弁護士候補者は仕事について尋ねるべき、最も大切な質問に向き合っていないようだ。その仕事を楽しめるか? その仕事は人生に意味を与えるか? (仕事を楽しみ、意味を見つける事は幸福を増やす---10章を参照。成功と幸福は同等だ。)

 選んだ仕事主義が何であろうと代価が要求される。働く多大な時間は代価になる。あなたの子供の多くは代価を要求される。家を所有するには代価がいる。アパートに住むのに代価がいるのと同じように。または、町に住む事、田舎に住む事と同じように。宗教生活を続けるのにも代償がある。そして非宗教的な生活にも代償がある。親の近くにすむのも、他の町に引っ越すのも代償がある。

 払われる代償のリストは私たちが乗り出す行動のリストと同じくらい長い。なぜなら、それぞれ、代償を要するからだ。ここで、人生のどこでも、従って、幸福にも明らかに求められる(代償が何なのか決まっていれば)。そして成長する(行う事を決心すれば、少なくともその時、不満はないか、あまり大きくない)。

 

第26章  性格のより低級な部分を受け入れる

 

 

 性格のより低級な部分で、私たちは人間になっている。----そして偉大な力を秘めている。

 全ての人に下劣な部分がある。私たちには次のような傾向がある。卑劣、わがまま、妬み、残虐、大食、不正直、肉欲、貪欲、無責任、快楽主義。この悪い傾向を全て持っている人はいない。そして全ての人には、このような傾向が多少ある。結果、大変立派な人でも、全て、または、ほとんど全てのマイナスの特性に向かう傾向がある。-----なぜなら、素晴らしい性格はマイナス部分を持っていないと言うより、むしろ、性格の最も悪い部分と闘うことによって決まる。

 理解する上で大切な事は、卑しい部分が如何に普通で自然かというだけではない。卑しい部分があることで悪い事は何もない。悪い事とは、悪い事を行うことであって、悪い事を考えることではない(例外がある------次章参照)。そして、悪い事は、単に悪い傾向を持っているという事ではないのは確かだ。

 私は青年期にさしかかった頃、度々、自分の性格の汚い部分にうろたえた。

宗教的、道徳的訓練の課程で、自分の暗い部分を形成しているものを知らなかった。私のようなやさしい魂にそのような傾向があるのか(!)と思った。そして、しばらくの間、宗教の核心の教えを取り入れるようにした。その教えは考えではなく、人の親切について規定している。そうすることによって、この暗い部分にも安心できた。結局、なぜ暗い部分があるのか、どのようにそれをコントロールするかを学んだ。

 悪い傾向をもっていない唯一の人は死んでいる人だ。-----文学的にも比喩的にも。十分活力があるという事、本当に十分に人であるという事は、暗い部分の傾向を持っているという事だ。私たちを最も人間らしくして、特徴や情熱を与える性質の中に、暗い部分の傾向がある。

 性格でより低級で悪い部分は、単に障害ではないというだけではない。実際に有益なのだ。考えてみよう。あなたはどちらと結婚したいか? 性的欲望がほとんどない貞節な人と、欲望がある貞節な人。ほとんどの人は後者だろう。-----なぜなら、そのような人は、より活力があって、より道徳的だからだ(存在しない欲望で行動しないことは、美徳ではない)。

 これは、情熱のある人、野性的でさえある性質のある人が、普通、特に異性に対して、より面白く----そして欲望的か-----という理由だ。不運にも、しかし、多くの人は度々、次のように考え違いをする。情熱を低くコントロールしている人には、情熱がない。例えば、多くの女性は、自分の情熱をコントロールしない男性に繰り返し惹かれる。-------そして繰り返し傷つけられる。-----一方、彼女たちは、自分をコントロールしている同じくらい情熱的な男性を退ける。間違って、これらの男性を刺激的でないと却下する。(この現象は、「ばか者はいつも女をゲットする」という事で知られている)。

 卑しい考えと欲望を持つ事は罪だ、と宗教に属する人が教えている時、その一員として、私は悲しくなる。時々、そのような考えや欲望に従って行動することも罪であると教えられる事さえある。しかし、純粋な心は聖人のような想像上のものかもしれない。残りの私たちのようなやつらにとって、行動をコントロールすることも、十分に達成するのは大変なのだ。

 かつて私のラジオショーで受け取った電話で最も痛切なものの一つは、ある中年男性からのものだった。彼がいうには、この10年間、彼は一人で病気の母を経済的、感情的に支えていると。彼は母をとても愛している。しかし、彼の負担はとても重く、時々、母が病気に負けて死んで欲しいと思うとの事。彼は罪の意識に打ちひしがれていて、自分を恐ろしい息子だと考えていた。

 私は彼に言った。そう感じるのは、君だけではない。君は恐ろしい息子ではない。特に素晴らしい息子だ。君の考えは普通で理解できるし、行動は模範的だ。悪い息子どころか、模範的な息子にずっと近い。

 アンビバレンス(愛憎が両方あること)なしで全ての良い事をしている人はいない。両親は確かにこの事を知っている。夜中、泣いている赤ちゃんをあやすのにイライラせずに起きる親はいるだろうか? どうしても必要な休暇を削って、全ての金と時間を子供の教育にかける親はいるだろうか? ------子供が負担を感じるのであれば間違っている。

むしろ、そのような考えに罪を感じるより、そのような親は、子供たちに働きかけない自分に自信を持つべきだ。

 

 

 2つの両極端:いつも我慢する事といつも発散する事

 より卑しい衝動について、2つの両極端の一つに当てはまる人が多くいる事がわかった。彼らは、常に自分の感情を抑えているか、いつも発散している。

 善人になりたいと思っている人は度々、そのような低級な感情が罪だと思っているので、平安を得る事は、それらを行動に移すことではないかと思っている。この見方では、感情を抑える事は、最良だ。一方、現代では特に、反対の傾向が主張されてきた。多くの人はマイナスの感情を抑えないというだけでなく、熱情的、行動的に発散しない事は自殺的だと思っている。

言葉での発散について、これは一般に健全なやり方だ(礼儀正しい人には)。泣き止まない赤ちゃんをあやすのに毎晩4回も起こされて発狂しそうになっている時、母親は、夫か、仲の良い友人に話す事はできるだろう。ラジオショーに電話してきた男性は、母が病気に負けてしまって欲しいという感情が偶にあることを誰かにぶつけても良いだろう。しかし、この種の言葉の発散には基本的な警告がある。母親は、自分の感情を助けにならない幼児に発散すべきでない。そして男性は自分の感情を母親に話すべきではない。

 一方、そのような感情を行動で発散する事は、ほとんど受け入れられない。母親も男性もこれらの感情で行動すべきではない。もし、母親がその感情を行動に移したら、幼児虐待になることは間違いない。(実際に全ての親はどのように幼児虐待が起こるかわかるようになる)。もし私に電話してきた男性が悪い感情を行動に移したら、殺人者に成り下がる。結果、西洋の現代の行動は、「医者が自殺者を補助している」を公認している。年輩の両親が、重病で死ぬことを、成人した子供が行動に移すことはその一例だ。

 私たちは、良心的な生き方と精神的に健康な生き方が矛盾していると思うことが度々ある。なぜなら、昔は抑制することを要求され、後には発散する事が求められているのだから。これは真実ではない。良心的であって、かつ精神的に健康なものは何一つない。しかし、より良くは、良心的な行動と精神的な健康は補完しあう。一般に、精神的な健康は、人をより良心的に行動させる。(確実ではないが)。 そして自分をよく抑制しているとき、私たちは最も精神的に健康だ。

 良心的な生活を導く主要な部分は、自分の邪悪な部分を識別して、コントロールできることだ。そして精神的な健康と幸福の主要な部分はどのようにこの部分を識別して、コントロールするかを学ぶことだ。そうすれば私たちは自分のこのような邪悪な部分をどうすれば無害に発散できるかが学べる。それは次章の課題だ。

 

第27章  低級な部分の無害な発散を認める

 

 

後ろ向きで邪悪な衝動と気持ちがあっても、それを行動に移さなければ、幸福、または良い生活を妨げない。これは更に述べる必要がある。

 

 低級 vs 邪悪な考え

 考えと行動の両方に関し、低級な事と、邪悪な事は、区別されなければならない。宗教について書くとき、私は、不道徳(邪悪なこと)と、神聖でないこと(低級であるが、必ずしも邪悪ではないこと)をもっと正確に区別している。不道徳と神聖でないことは、同じではない。多くの信心深い人はそう考えていても。不道徳な行動(例えば、票集めのため、罪のない人を非難する)は、全て、神聖ではないが、全ての神聖でない行動は不道徳とは限らない。

 神聖でない行動は神聖さの慣例をぶち壊すが、必ずしも道徳の作法をぶち壊さない。例えば、ポルノ写真を見ている男性は神聖でない行動をしているが、不道徳ではない。モデルのポーズはいんちきか、または、強制されているものだと知っている場合は。ただし、この写真を見る事が妻への愛を傷つける場合、最も悪い例では、写真が子供のものだった場合を除く。あまり感情的に険悪でない例を引用すると、ボールに顔を突っ込んで食べている人は不道徳ではないが、神聖なマナーではない。

 低級と、邪悪な考えの違いについて理解するため、長く病にかかっている母に死んで欲しいと思うと語った男性に戻ろう。この考えは明らかに高尚ではないし、神聖でもない。しかし、その考えは邪悪なものではない。もし彼が母親を殺せば、その考えは邪悪なものと言える。しかし彼は、決してそのように考えなかった。彼は、母が病気で死ぬ事を夢想していた。しかし、それは高尚ではないし、邪悪でもない。----それは単に低級なのだ。

 

 低級な考えと気持ち

幸福という点からみると、低級な(邪悪と反対のような)考えというのは、一般的には問題ではない。低級な考えを全て撤廃するためには、素晴らしい人以上にならなければならない。人である事を止めて、天使にならねばならない。天使だけが下品な欲望をもっていない。

信心深い人で、低級な考えを追い出そうと熱望している人がいる。彼らは従って、この不道徳な世の中の多くの事と接触するのを避けようとする。彼らは世の中を避けて、修道院、学習院、宗教団体のようなところへ行く(それ自体は宗教的だ)。低級な考えを根絶しようとする欲望は、性的な問題について宗教的な最大の関心事のよりどころとなっている。次のような例がある。イスラム教徒は、女性の体は完全に隠されているべきだと考える。-------女性の肉体を見なければ、低級な考えも起こらない。キリスト教徒は、マスターベーションは重大な罪だといっている。--------マスターベーションは低級な気持ちを具体化している。そしてユダヤ教徒は、配偶者を除き、いかなる異性とも握手するようなことさえ慎んでいる。----------体が接触しなければ、低級な気持ちが起こらない。

もう一方の極端では、現代の世俗的な世の中の多くには、神聖という概念がない。従って、低級な気持ちには、ほとんど問題がない。このように、例えば、性的に明白な掲示板やテレビショーが社会に染み渡っている。性的な感情を奮起させるのに大金が動いている。巷での下品な言葉は平凡なものになっている。

どちらの極端も幸福にはつながらない。なぜなら、両方の極端は低級な感情に心を奪われた人たちを生む。両極端からは何も得られない。両極端を抑制しない人は、まもなく現代社会の快楽主義的な刺激に支配される。同時に、神聖でないことを決して考えようとしない人生を過ごす人は人生の多くのことから隠れることになるかもしれない。または、世間----正確に言うと、彼らが考える最も多くの事-------について考えないようにしている人のようになる。

 ここで幸福へのカギとなるのは、他のことでもそうだが、バランスだ。このバランスは、私たちの天与の性質と同様に、(より低級な)動物的な部分を認めることによって達成される。聖書の創世記で、「男を創ろう」と神が宣言する時、その私たちは神と動物になるように想像されたのかもしれない。私たち