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第3部

態度と振る舞い。幸福に不可欠なもの。


第20章 意義と目的

 
 

人生に意義と目的があると考えるなら、実際にどんな環境でも幸福の達成は可能だ。「Man’s Search for Meaning(意義の探索)」の心理分析者ヴィクター・フランクルによって、幸福の意義の重大性に私は初めて気づいた。ナチの死のキャンプで捕虜だったフランクルは、できるだけ赤裸々な方法で観察した。生きる意志を主張する目的の意義を人は必要としている。

意義と目的の必要性は、幸福にとって途方もなく大切というだけでない。人である特徴を根本的に区別している。ある動物は感情を持っているかもしれない。そして、互いの情報交換の能力がある。人とさえも情報交換する。しかし、少なくとも一つ違うのは架橋できないことだ。------動物は生きがいを持つ必要がない。人である事は、一方、生きがいを必要とする。ヴィクター・フランクルの見方では、人は、他の動物と同じくらいか、恐らく、もっと生き甲斐を必要としている。例えば、性の精力が強力であるのに、性的関係なしで幸福な人生を引き出せる人はいる。しかし、生きる意義と目的を欠いた人が幸福な人生を送ったことはほとんどない。

他人と一緒にいる必要がある重要人物でさえ、生きる意味を必要とする人と同じくらい偉大ではないかもしれない。アナトリー(ナタン)・シャランスキーがソビエトに異議を唱えている時の記録に、次のように書いている。独房監禁の苦痛に耐えている時でさえ、アナトリーは監視人よりは幸福だった。なぜなら、彼の人生は、監視人と違い、生きる目的と意義があったからだ。

 

 

 意義の型

 生き甲斐を見つける事の大切さは、最近の議論の中心になっている。しかし、それを見つけるだけでは不十分だ。2つ信念から生き甲斐は得られる。-------生活が意義を持っていること。そして、生活そのものに意義があること。両方とも----個人の意義と卓越した意義において----------幸福にとって必要だ。

 両方の考えを持っていない人も、持っている人もいる。多くは、どちらか一つだけを信じる人だ。------彼ら自身の生活は意味を持っているが、生活そのものは結局、無意味だ。後のほうは、非宗教的な知識人に多い。彼らは生活を、当てずっぽうで、管理されないもの(本質的に分別の理由として)と見ている。しかし個人の生活を意味あるものと考えている。純粋に論理的な立場で、意味のない宇宙が、どのように生き甲斐を作ることができるのか私にはわからない。しかし、ほとんどの人が意味のない宇宙を信じて、同様に自分自身の生活を意味のあるものと思いたくない理由は、よく理解している。

 

 

 

 生きがい

 個人の生き甲斐は、次の3つから由来している------------(家族、友人との)関係、仕事、目標。

 関係   ほとんどの人、特に親は良く知っている。家族から如何に多くの生きがいが得られるか。例えば、人生で、子育てほど有意義な事はあまりない。主として、物質的に、情緒的に、精神的に、道徳的に、経済的に、親は子供を支える。そのような役割は人に可能な限り多くの生き甲斐を与える。感情面では、子供の笑顔ほど、多くの生きがいを与えるものは少ない。子供たちは私たちに打解け、世話のもと、つぼみの開花から大人へと成長する。

あなたは、家族の意義に感謝する親になるのか、ならないのか? 愛すること、愛されること、必要とされる事に、大きな生きがいがある。--------そして、家族から、それら全部を得ることができる。加えて、ほとんどの男性は家族のため物質的に扶養することから、女性は家族のために情緒面で扶養することから意義を得る。(もちろん両方とも物質的、情緒的扶養をできるようになってきている)。一方、小さい子供は家族の一員であることから、ほとんど全ての意義を得る。

 友人も同様に生きがいを与える。実際、友人を持たない子供は、素晴らしい家族があったとしても、後にうつ状態になったり、他の感情的、社会的問題の危険をもっている。

 仕事  主要な生きがいの2つめは、仕事だ。そして、それは、金銭的な報酬と関係ない。弁護士は大きな年収があるかもしれない。例えば、彼らの仕事で、ほとんど関心を集めない人か団体を弁護している時は、あまり、やり甲斐を見出せないだろう。他方、例えば、教師のように稼ぎの多くない人、またはボランティアのように無報酬の人は、自分の仕事に深い意義を感じている。

 多くの人は、仕事にやり甲斐よりも金か地位を求めている。彼らにとって仕事は特に意義のあるものではない。そして主要な幸福の源でもない。1つ明らかなことは、自分の仕事で、収入か、やり甲斐かを選択しなければならないことが度々あるという事だ。

 目標   3番目の生き甲斐は目標を持つことだ。3つの生き甲斐のなかで、目標を持つことは最も強力なこともあり得る。しかし、それはまた、最も危険だ。悪のための力は、善のための力と同じくらい強い。目標が例えば、病気に打ち勝つこと、子供を守ること、であったら、その目標は意義があって、同時に善だ。しかし、意義があっても善ではない目標もある。

 他の2つの生き甲斐がなくて、目標だけを持つ時、目標は、他の生き甲斐、特に人間関係の代用になることがある。これは一例だが、若い独身の人は、結婚している成人より簡単に人生に目標に与えやすい。彼らには配偶者も子供もない。深い友人関係を持っていることもあまりない。そして、人生の仕事を持っていないことが多い。目標は彼らの生き甲斐の中で最大のものになる。そして幸福の源になる。(そして関係-----他のメンバーとの------でさえ目標になる)

 もちろん、目標を持つ時は、生き甲斐がある。本当に貴重だ。世界はここから利益を受けているかもしれない。しかし、もし目標が意義を探すだけの結果だったら、簡単に貴重ではなくなる。オタクになる。目標に意義を見出し、それを通して大きな悪がなされてきた。歴史はこういう例で満たされている。これは特に男性について真実だ。なぜなら、彼らは女性のように、満たされた関係を自然に見出せない。(男性には学ぶ余地がある)。

生き甲斐と幸福を与える目標の中で、宗教は最良だ。宗教の他の特徴は、------地域社会と超自然-------また、幸福を与える。宗教が善と悪の両方で、最も強力な力を持つこともあることは、驚くべきことではない。本当に、過去、宗教には功罪がある。最もメジャーな宗教は害より善を多く行っている。しかし、いくらかの大きな害も行っている。

その上、現代、個人の意義の源として宗教の弱体化は、祝福より、呪いを増やしている。伝統的な宗教の衰えで、数千万の人々は意義ある目標のため、どこかよそを求めている。そしてこれらのほとんどは、感情的な悪-----狂信的愛国主義、民族主義、共産主義、ナチのようなイデオロギー----------を創っている。一方、目標を、道徳のある外部の宗教に置いている個人もいる。20世紀の人々の道徳的な記録は、社会の目標を外部の宗教に与えた。これは普通恐ろしいことだ。

要約すると、目標は、大きな意義を与えるものだ。しかし、それが世界にとって最良なのは、目標自体ではなく、人間関係から不可欠な意義をその目標から得られる時だ。アドルフ ヒトラー、ジョセフ スターリン、のようなカルトリーダー、アメリカの連続殺人者の伝記は、実際、全て一匹狼のものだ

 

 

 卓越した意義

 ほとんどの思想家は、生き甲斐を見つけることが如何に大切か知っている。しかし、それは十分ではない。幸福になるために、思慮深い人は信じているに違いない。人生そのものに意義があると。

 現代の非宗教的な世界は、人々の幸福を度々傷つける。純粋に非宗教的な実在を理解することは、次の事を意味することができるだけだ。世界は、結局、目的も意義も持っていない。ここでは宇宙の見方でどちらが正確かは、議論しない。-----目的のある宇宙の宗教的理解、または、でたらめな宇宙の非宗教的な理解-------。これを知る方法はない。知りやすい事は2つの見方の成り行きだ。

 もし、創造物(人間)に意義と目的を吹き込む、神も、天も、案内の手もない場合、創造物は、その高い地位を保つことができない。意味を与える仕事、家族、友人、社会を多く持てば持つほど、非宗教的な宇宙は次の事を意味する。結局、これらの事に意味を与えるものは存在しない。絶望しないようにするためにこれらの意義を仕立てあげた。もし私たちが毎朝、鏡を見つめて、意味のない力、星屑の無秩序な産物だけをみて気付くとしたら、幸福になるのは困難だ。

 これはその理由だ。思想家の幸福にとって、宇宙の宗教的な知覚作用はとても大切だ。一方、現在の支配的な知識人の見方は次の通りと仮定する。思慮深い個人は、ほとんど宗教を必要としていない。結果、最も宗教を必要とするのは、思想家だ。少なくとも理論では、非思想家は、人生の喜びと生き甲斐を経験することによって、それだけで、幸福になることができる。しかし、思想家は知っている。喜びと生き甲斐だけでは、意義ある宇宙への人の熱望に答えない。

 

 

 まとめ 

 いつも尋ねなさい 「意義があるか?」

 善良な人になるためには、何かをする前に「それは正しいか?」 を自分に聞いてみる必要がある。体を健康にするためには、食べる前に「それは健康にいいか?」 と自問してみる必要がある。幸福になるためには、行動する前、「意義があるか?」を尋ねる必要がある。もちろん、問題なのは、良い行動、健康的な食べ物、意義ある振る舞いが、私たちの選択の中で誘惑的な事は滅多にない。------それは次のことを示すだけだ。もう一度。幸福のための最大の闘いは自分自身の性質との闘いだ。  

 

 

第21章  幸福はつくられるもの

 

 

 大切な事だが、幸福が自分の最も大切な価値基準であるなら、幸福にはなれない。他の事の副産物としてのみ、幸福は達成可能だ。そしてあなたは幸福*よりもっと大切なものをもっているに違いない。その上、自分自身を騙す事は不可能だ。例えば、次のようにいう事はできない。「幸福になるために、私は幸福よりXに価値を置くつもりだ」。しかし、あなたの心の中で、幸福はもっと価値をもち続けるようになる。

 幸福よりもっと大切な6つの価値を次に示す。----そしてそれは人々に大きな幸福をもたらす。

 

*今日の親に尋ねてみなさい。子供のために最も欲しいものは何か? 彼らの大多数は言うだろう。子供に幸せになって欲しいと。この趣旨として、子供の人生で最大の価値を幸福とする事によって、親たちは、不運にも子供たちが幸福な大人になるのをかなり難しくしている。親は子供が幸福になることを願っている。しかし、彼らは子供たちに、幸福な子供になるように、幸福よりもっと高い価値を信じさせる。

 

 

 

 

情熱的で意義のある目的

 最初に、最も明らかな幸福の源は、人々が大きな情熱を感じ、意義を与える目的だ。そのような目的の数はほとんど無限だ----------昆虫の研究から、臨終を迎えようとする野球選手まで。

 情熱的で、意義ある目的には、幸福になる力がある。子供ができるだけ多くの情熱を持てるようにする事は必須だ。より多くの情熱をもつと、---------物、仕事、趣味、他のどれか---------幸福も増える。しかし、もう一度、私たちは自分をだます事はできない。情熱は十分でない。そこには、本質的な価値と意義があるに違いない。人はテレビを見る情熱があるかもしれないが、多くの時間をテレビで過ごす事は、本質的な価値も意義もない。その結果、幸福にならない。

 テレビで普通にやっている信条や調査を私はめったに引用しない。その信条や調査とは、庶民感覚や人がすでに知っていることか、または、調査する人が見つけたがっているもの全てだ。しかし、幸福とテレビに関して、私は気付いていなかったことがあった。それは、ある日に一定時間テレビを見ると、幸福が実際に減ってしまうという調査だ。今、一定時間何かをした後、不幸になると仮定したとしよう。しかし、それはちがう。例えば、私たちのほとんどにとって、昆虫の研究は面白くはないが、テレビとちがって、価値と意義の両方がある。そのため、昆虫の生態研究が好きな人は、一定時間昆虫の研究をした後でも不幸にはならないだろう。一日に6時間(アメリカでのテレビの平均視聴時間)、昆虫の研究をする事は、実際に幸福を増やすことができる。------なぜなら、それは成長と知識をもたらすからだ。

 他の例を引用しよう。スポーツ選手でも幸福をもたらすことができる。---------次のことに感謝。スポーツの愛好、ゲームを通しての他の人と深い相互作用、スポーツの精神的・肉体的・感情的な挑戦、-----単なるスポーツファン(例えばスポーツ観戦)は一定時間過ごした後でも、幸福にならない。スポーツ観戦は面白いが、めったに意義を与えない。一つの証明は、ファンの中の莫大なスポーツ賭博だ。ギャンブルはスポーツ観戦に不足という別の意義を与える。一方、経営者、選手の育成、スポーツ記事にとっては、スポーツ観戦は意義がある。

 

 

 深遠さ (深遠さ;知識・知性・英知・洞察力の深さ)

 2番目の例。副産物として幸福を得られる目的。それは深遠さだ。現代では、「深遠さ」という言葉は、ほとんど使われない。または、人々が--------特に若い人々--------達成したいことについて考えるときでさえ、深遠さについては考えない。 「あなたにもたらされる深遠さはどのくらい大切だろう?」と人に尋ねると、たいてい戸惑って答える。「どういう意味だい?」

 より深遠な人になるという問題は、それだけで1冊の本に値する。私が信じる定義といくつかの例を与えよう。多分、深遠さを理解する最良の方法は、成長を考えることだ。私たちは成長しようと闘うとき、より深遠になる。------感情的、道徳的、精神的、知的、賢さにおける成長-------。どうか、注意ください。その闘いは、深遠さの一部なのだ。深遠さが簡単に得られる事は、あまりない。

 しかし、繰り返すと、人の性質は、私たちに対抗して働く。人の性質によって、私たちは当面の楽しみを探す気になる。深遠さを探す気にはならない。しかし、その性質を超越して深遠さを探す事は、闘いから大きな幸福を引き出せる。

 次の誰が、より知的に深遠な(そして幸福な)人か?-----毎晩よい本を読む人、コースの授業を受ける人、外国語または楽器演奏を学ぶ人、テレビを見る人。

 誰が感情的により深いか?------夫婦を続けること、子供を育てること、独身。

 誰が精神的により深いか?------自分自身について考える努力をする人、めったに反省しない人。

 例は至る所にある。面白いことでさえ深遠になれる。カードゲームをやると、くつろげる。或いは、成人の教育コースを取る時、面白いかどうかはあなた次第だ。「イージーリスニング」音楽を楽しむことができるし、クラシック音楽のようにより深い音楽を楽しもうとすることもできる。娯楽だけの映画を楽しめるし、娯楽と同時に考えさせる映画を見ることができる。娯楽小説を読めるし、娯楽と同時に知的で感情的な小説を読むことができる。

より深く面白いことを経験すると、見せ掛けのバラエティーに戻れなくなる。なぜなら、深遠さの報いは大きいからだ。ポピュラーとクラシック音楽の両方を楽しむ人に、どちらの報いがより大きいか聞いてみよう。(ポピュラー音楽の楽しみを深く評価して、こう言っている。)

深遠さの追求は、人であることを特徴づける一つだ。人生の高尚な目的の1つだ。そして、深遠さの追求は幸福をもたらす。本当に、深遠さへの旅は達成と同様に幸福をもたらす。そして深遠さには際限がない。その旅は永遠に終わらない。

 

 

賢明さ

副産物として幸福をもたらす3番目の目的は賢明さだ。賢明さは「理解していること」と定義できる。単に知っているだけというのと対照的だ。知識は素晴らしいことだが、それは賢明さと同じくらいの価値はない。そして、賢明さがもたらすような心の平安や幸福をもたらさない。コンピューターには膨大な知識があるが、賢明ではない。本当に、次の事は多くの人にとって正しい。もし知識の蓄積が賢明さをもたらすのなら、私たちは人類の歴史で最も賢明な時代に住んでいる事になる。そして過去に、今ほど多くの教育を受けた人はほとんどいなかった、私たちの祖先で、賢明だった人はいなかったことになる。しかし、多分、私たち全員は、限られた教育で賢明な人と、高い教育を受けて馬鹿な人を知っている。

 私は賢明になれる確実な方法をお教えできない。そんなものは恐らくないだろう。ある人は賢明に生まれてきたように見える。そして、ある人は知的に、感情的に努力して賢明になるように見える。一つ明らかな事は、賢明さを終生追求する事で、幸福な人生*が得られるということだ。

 

 

 透明性(明快さ)---自分と世間を理解する事

 副産物として幸福を生み出す目的の4番目は、透明性(明快さ)だ。自分と世間を理解せずに幸福になれると考えられがちだ。「無知は無常の幸福」という決まり文句を信じて----しかしこれは違う。伝統的な東洋人の考えから現代の西洋人の精神的考えまで、はびこっている考えがある。透明性(明快さ)は、苦痛の時でも、祝福される。呪われない。大多数の人は、次の事を考えないで、人生を過ごす。なぜ人生はそのように振舞っているのか、または何故彼らは彼ら自身がそのように振舞っているのか。しかし何故あなたの人生がそのように展開いているかを知る事は幸福の大きな源の一つだ。

一つの例は、悲劇に対処する能力は、説明を受けた時のほうが、大きくなる。

 

 

 *興味がある方のために、2つの意見を示す。大部分で現在の賢明さは衰えている。一つは教育の専門性だ。教育一般で、専門の狭い範囲が益々増え、知識を多く蓄えることが好きなことを諦めさせる。もう一つは、聖書の諺で断言されている。「神を畏敬する事に賢明さがある」。非宗教は大いに祝福されている。そして最も寛容に讃えられている。非宗教的な政府に感謝。しかし、賢明さは滅多にもたらさない。なぜか? 結局、卓越した人生の意義を認めないと、でたらめで、要領を得ない考えになってしまう。そして、でたらめと無意味からくる賢明さは、あまりない。思い浮かぶのは、ほとんどの宗教的な政府が寛容さを欠いている事だ。私たちは、ちょうど、賢明さを欠いた非宗教的なものを思い浮かべるべきだ。

 

 

 

 

 

例えば、飛行機事故の時、亡くなった乗客の友人と関係者は、何の説明もない時よりは、説明があった時のほうが感情的によい状態になる。もし透明性と理解が私たちの幸福にそれほど大切でないなら、事故の説明なんか、大切ではない。しかし説明があること(明快に)で、大きな変化がある。透明性(明快さ)の欠如は、生活が無秩序になる事を暗示する。無秩序はは無意味を、無意味は不幸を保証する。

 成長と深遠さで、あなたは理解すればするほど、もっと理解したくなる。あなたは知りたくなるだろう。何故腹が立ったのか、何故愛している人に怒鳴ったりしたのか、何故違ったタイプの人を愛し続けているのか。透明性(明快さ)は人生で起こる全ての事を変えることはできない。そして何も変わらない。しかし、それは私たちを受身の傍観者から役者へと変える。

 

 

 

 5番目の例。善の行いは、幸福をもたらす。私は、善と幸福の関係について別に書いている。----例えば、良い人々は他の良い人々を呼ぶ。そして、そのような人と一緒に過ごすことは幸福を増加させる。良い事をする人、より大切な目標である良い性格を持つ人は、「副産物の幸福」を得る。善の追求からもたらされる心の平安と価値のある感覚は、他のものでは得られない。

 

 

 超自然を追求する

 最後の例は、多分最も普遍的な事-----超自然の追求----だ。歴史を通して、ほとんどの人は人生は非常に短命であることに気付いていた。私たちは自分の意思に反して、この世に到着し、短い時間過ごし、そして去っていく。今日、私たちは、巨大な宇宙の極微量の小さい点でしかない事を知っている。したがって、ますます私たちは意義を必要とする。その意義は、永遠に私たちをしのぐものを信じることからしか得られない。

 次のように主張する人は多いだろう。超自然はないし、宗教は大きくは馬鹿げていると。しかし、宗教ほど、精神の平和をもたらす能力のある物はない、という事に反対できる議論はあまりない。人には次のものがある。意義、秩序、地域社会、宗教の提供する答え。

 

第22章  正しい見方の開発:人生観の育成

 

 私たちは、どのくらい不幸になるかを自分で決めている。

 ある寒い冬の夜、友人のジョセフ・テルシュキンは講演に行く途中、車のタイヤがパンクしてしまった。トラックで牽引してもらう時間はなかったので、ジョセフは寒さに耐えて自分でタイヤを交換しようとした。しかし、だめだった。

 ジョセフは、大切な講演をはずしてしまい、聴衆をがっかりさせ、金(収入)をなくした。悲惨な夜だった。しかし、次の日、このことを話しているとき、彼は特に不幸ではなかった。

 「僕は確信したよ。パンクは誰にでもあるんだって。」彼は語った。

「今まで1回もパンクしたことなかったんだ」

 多くの人は、このような状況では、ジョセフより、かなり不幸になっていただろう。何故彼はそうでないのか? なぜなら、ジョセフの人生観は、彼に正しい見方を与えるからだ。

 私たちは、自分がどのくらい不幸になるかを自分で決めている。多くの人は気付いていない事だが、出来事に対する感情的な反応は自分で決める事ができる。ほとんどの人は出来事が彼らを不幸にすると考えている。つまり、彼らの幸福のレベルは本質的に、彼らに起こった事によって決まると。しかし、違う。

 考えてみよう。例えば、クレジットカード、免許証、お金と、大切な領収書が入った財布を失った人が2人いる。1人は一週間ひどく落ち込む。もう1人は1日落ち込む。失った財布は、それぞれ同じくらい大切だったとしよう。何故1人はもう1人より長い時間不幸だったのだろう? なぜなら、彼は自分を不幸にしたのだ。そして彼が不幸になった主な理由は、起こった事に対する正しい見方を欠いていたことだ。

 私が書いてきた幸福に関する研究で、最も際立った結論の一つ。それは、生活環境と、どのくらい幸福かという事は、ほとんど相関がない。少し考えるとわかる。私たちは、比較的安易な人生を送っていて、本質的に不幸な人を知っている。そして大変な活動をし、比較的高いレベルの幸福を維持している人もいる。

 これに対する一つの例は、生まれるとき、または幼いころ身についた感情的で、精神的な性質だ。しかし、内面の性質は、人生への反応を違ったように表現しているというだけではない。少なくとも度々、彼らの幸福のレベルを決めるのは、その態度と人生観だ。

 

 

 人生観に必要なもの

 何故ある人は多くの競争相手があるのに幸福で、ある人は、無数の祝福にもかかわらず、不幸なのか。もし内面の性質がこの事を説明するだけだったら、精神療法、宗教、人生観は全て、役に立たない。このような本はいうまでもない。そして、幸福は単純な質問で決まることになる。内面の性質=幸福 または 不幸。 幸福という点からみると、私たちは出来事に反応する複雑にプログラムされたコンピューターと同じだ。コンピューターは同じように作動する。

 私たちはプログラムされたコンピューターではない。出来事にどのように反応するかを決めることができる。そして、性質以上のよりどころから、この決定を行う。態度と正しい見方、またはもっと正確には人生観によって、私たちの反応は決まる。それはドイツでは、Weltanschauung(世界観)として知られている。

 人生の仕打ちにどのように反応するか。人生観なしでは、わかり得ない。私たちの幸福は、あがったり下がったりする。そして、その日の出来事と直接の感情によって決まる。その感情は、落ち着いた熟考によってより、むしろ彼らが引き出したものだ。出来事を正しい見方で捕らえることはできないと、-----それは人生観からくる-----出来事のなすがままになる。私たちの船には行き先とコンパスがなくなる。 

よくあることだが、ある四十歳代の男が、弟を亡くした。突然の心臓発作だ。親友であり、最愛の唯一人の弟であった。彼は、私に打ち明けた。神を完全に信じられなくなったと。彼は宗教団体の活動に決して熱心ではなかったが、毎日、神にお祈りをしていたという。しかし、今、彼の弟は、若い年齢で死んでしまった。彼は神を見限った。

 私は尋ねた。弟が亡くなる前、神の存在で、不公正な死に甘んじる難題と闘ったことがあったかどうか。結果、弟以外に、多くの男女が若くして亡くなっている。悲しみに打たれた、愛するものを後に残していってしまう。彼らを亡くしたことで、神をどのように理解するのか?

 彼は、その問題について本当に考えた事がなかった事を認めた。他人の死でも、彼は、どういうものか、いつも神と親密だと感じていた。そのようなことは、彼には起こらなかった。

 十年後の今でも、彼は変わらない。まだ、神に感謝しない。

 私はこの男が特に知的で愛他主義だということを知っている。したがって、この問題は馬鹿げた自己中心主義の一つではない。この男の問題は次の通りだ。彼は神と不公正な苦しみ(弁神論として知られている。悪の存在が神の属性と矛盾しないと主張する説)の問題を考えなかった。したがって、人生観は育たなかった。このような出来事に対して彼は準備できなかった。彼がそう考えていれば、彼と神との関係も死ななかっただろう。

 ほとんどの人は悲劇に打たれるまで、どのようにして悲劇になったのかを考えない。その時、ショックは彼らの感情的、精神的システムで吸収するにはあまりに大きすぎる。それが常に働かなくても、人生観は当然、絶望に反対して植え付けられると見るべきである。多くの人は大きな悲劇に直面すると、その信頼を保持し、絶望を避ける。------そして、彼らは、人生観を持っている事に大いに感謝する。

 カップルにとって、人生で最も苦痛なこと、子供の死。私が、人生観が不可欠だとわかった最たるものだ。ほとんどのカップルは子供の死の後、離婚している。この事を知ってから、ラジオショーでこの問題を取り上げた。そこで、子供を失った後、一緒に過ごすカップルに尋ねた。どうして、子供を失った後、一緒に暮らせるのか? 彼らに素晴らしい精神的、感情的要素があったとしても、一つの結論は、ほとんどのカップルに当てはまるようだ。カップルは、完全に存続し、幸福のために努力することが可能でさえある。その悲劇の前-----そして、その後でさえ------彼らは人生観を発展させ、その悲劇に適合できるようにした。

 人生観から得られる大局観(物事を全体的に把握する能力)は悲劇を取り扱うときだけ必要というわけではない。日常的な苦痛に対しても適用できる。私の友人のジョセフは、不幸な事で夜を破壊しないように出来る。なぜなら、彼には大局観(物事を全体的に把握する能力)を与え得る人生観がある。彼は信じている。私たちはみんな「車のパンクの割り当て」を持っている。終生、私たちは、機会を失う経験をし続けるだろう。パンク、飛行機の欠航、価値の置き誤り、事故、財布の紛失、骨折、多くの物は苦痛だが、悲劇ではない。

 

 

 大局観(物事を全体的に把握する能力)を与える他のもの

 ジョセフの「パンクの割り当て」は人生観の一例だ。それによって、私たちは大局観を持てる。そして、困難と対処することができる。ここに他の7つの例がある。広く人生観を含んでいる。困難な時を経ることによって、人生観を得る事ができる。

 

 

 「これも通過するだろう」

 物語を話そう。賢明なソロモン王は、宝石商に、魔法の指輪を合わせる様に頼んだ。その指輪は、落ち込んでいるときは励ましてくれ、うれしすぎる時は、落ち着かせる力がある。宝石商はそのような指輪を持ってきた。そこには3つのヘブライ語が彫られていた。-gam zu ya’avor(これも通過するだろう)

 困難は過ぎ去るという事。これを知ることで、人生の難しさに対処する事が可能になる。結果、誰でもこの姿勢を取るべきだ。カップルは、例えば、次の事を認めるようになるべきだ。彼らは難局を過ごしている時、コミュニケーションを維持し、特に馬鹿な破壊的なことを言ったり、行ったりしない時は、パス(合格)だろう。そしてカップルは、より健康で強くなる。

難しい時期がある。例えば、多くの十代の親は、日常的な基準で、自分を安心させるべきだ。十代は実際に終わり、彼らとその子供は、年を重ねる。多分、次のような事を経験している。それは、かつて、私の講義に出席した親によって、提供された。

 講義の後、この男は私のところに来て話した。彼は正確に示した。彼らが十代になる時、若い人に何が起こったか。子供が13歳になる時、彼は説明した。宇宙人が来る。そして若い人の脳を取り去り、宇宙人の脳と入れ替える。そして、子供の18歳の誕生日の後のある時、宇宙人はもとの脳を置いていく。これは、「これも通過するだろう」という態度を説明する例だ。

 

 「私を殺さないものは、私をより強くする。」

 ドイツの哲学者フリードリッヒ・ニーチェ(私の好きな思想家ではないが、私たちが好きでない人々でさえ、賢明な考えに近づける)が言っている。「私を殺さないものは私をより強くする」

 もちろん、これは常に正しいというわけではない。人々に起こるあることは、恐ろしすぎるため弱くなってしまい、強くならない。そのような恐怖は比較的珍しい。しかし、ほとんどの人々は、逆境に直面して生き残ることから、より強くなる。この事を知る事はトラウマを元通りにしない。しかし、それは次の事を意味する。積極的な事----強さと成長-----は消極的な開発と異なるものから来ることが出来る。

 

 

 起こることに対するプラスの見方がある

ここまで述べてきたことと関係する事は人生観だ。全てのマイナスの出来事のなかで、プラスの事を見つけ、創り出され得る。これは私の人生の見方の中心だ。そして幸福への核心だ(次の章は、この概要を展開している。)

 

 

 「生きる事は耐えること」

 ロシア作家フィオドール・ドストエフスキーに戻ると、彼は次のように書いている。「生きる事は耐えることだ」。これは当時の19世紀ロシアでは全く正しかった(20世紀のロシアでも正しい)。そして人類の歴史の大半でも正しかった。しかし、私の文筆業としての人生では正しくなかった。他の数億人の人生でも正しくない。特に、現代の先進諸国では、そうだ。この見方は、賢明で有用だ。

 この見方は明らかに価値ある人生観は耐えることの中にある。もしあなたが本当に生きる事は耐えることだと思うのなら、耐える事は普通のことで、ショックは癒されない。

 

 

 神は不公正な苦痛を許す

 弁神論(悪の存在が神の神聖と矛盾しないとする説)の問題と格闘する時、最終の答えはない。しかし、実行可能な人生観はある。

 1つは、神は自然にそのコースを取らせている。意味するところは、神は、がん細胞を転移させる。それは善良な人も罪がある人も同じだ。もしそうでないなら、善良でいることは強調されないだろう-----みんな病気をさけるために善良になる。

 もう1つは、神は、悪人が善人を傷つけるのを許す。なぜなら、神は道徳的な選択の自由を人に与えた。それによって、私たちは、ロボットではなく、人になる。

 3番目は、神の意思だ。私たちに何が起ころうと、私たちは苦痛に耐えているかもしれない。私たちが何故苦痛に耐えているのか知らなくても、神はその理由を知っている。これは、私の個人の意見ではない。しかし、それは、確かに多くの人々に苦痛に耐える実行可能な方法を与えている。

 神の不公正な苦痛を諦める4つめ。それは、神は、どのような苦痛も望んでいないと仮定することだ。しかし私たちが楽しみ、頼りにして、気にかかる神がいる平和を知っているときも、神はそこにいる。そして全て、無秩序ではない。

 

 

平凡な苦痛を与えられることで、私は恵まれている

 私は70カ国以上旅行した。そして見てきた苦痛に対して、深い衝撃を受けた。多くの人を苦しめる苦痛や、次のような現代の恐怖----ホロコースト、共産主義、ルワンダ、カンボジア、アルジェリアの虐殺。これらを見ると、はるかに小さな問題のために不幸になることはできなくなる。

 

 

死後の世界を信じる

私たちの考えや行動はこの世に集中されるべきだ。しかし、死後に何かを置く人生観では、最大の正義がどういうものかが明らかになる。その人生観では、他の考え方よりも、苦痛に対処できるようになる。死後の世界が実際にあるかどうか、もちろん、証明できても、できなくても、その存在の議論は、この本の範囲ではない。私は、死後の世界を信じるようになっている。なぜなら、公正な神が不公正な世界を創り、非物質的な神が物質的な世界だけを創ったということは、信じられない。しかし、公正で非物質的な神の存在を信じない人、したがって、死後の世界を信じない人でさえ、次の事を認めるに違いない。つまり、一つのことを信じる人は、不公正な苦痛を含む実行可能な考えをもつようになる。そして、もっと幸福になる。今の人生が全てだと信じる事と、不公正にひどい苦痛に耐える人には、楽しみがなく、幸福の秘策ではない。

 

 要約すると、私たちが人生観の意味を理解できることによって、そして、人生のマイナスでどのくらい不幸になるかを自分で決めることが出来るようになることによって、人生観は意味を与える。このように、人生観は、内面の性質より大きい。そして、どのくらい幸福になるか、どのくらい不幸になるかを決める。年齢は問題ではない。人生観を発展させるのに遅すぎる事はない。しかし、親は自分の人生観を子供に与える事によって、価値のないものを子供たちに残すことがある。親が与える事ができるどんなものよりも、それは子供たちの将来の幸福を確かなものにする。

 

 

第23章 プラスの面を見つける

 

 

 例1

 1階のアパート

 コロンビア大学の大学院生として、マンハッタンでアパートを探していたとき、私が借りられるのは、1階のアパートだけだった。私はそれを借りた。ニューヨーカーにそのことを説明すると、彼らはたじろいだ。大失敗だ、とみんなが言った。1階のアパートはいやがられるのだ。-----夜間の強盗に遭いやすい。彼らの反応、そして私が借りた地域が大変危険な地域だったという事実。この選択では、不幸になりやすかった。

 結局、私は彼らのいうことを聞かなかった。不幸になる代わりに、1階のアパートが最善の選択だと思える理由をいろいろ考えた。ほとんどのアパートの住人と違って、エレベーターで待つことはない。すぐ近くに管理人がいる。管理人は次の階に住んでいた。簡単で速い外出と帰宅。エレベーターが壊れた時、階段を上る心配はない。

 結果、私の選択と心配した事を後悔することなく、引っ越した日から、そのアパートが気に入った。(その上、強盗に遭わなかった。そして私は管理人の息子の兄貴分になった)。

 私は成長し、ほとんど全ての場面でプラスの面を見つけようとする、生まれつきの恵まれた傾向に磨きをかけた。幸福になるため、自分を騙すやり方を持つ傾向を非難する人もいる。しかし彼らはポイントを間違えている。マイナスの状況でも、ほとんどいつも、プラスの要素はある。プラスの状況でも、ほとんどいつもマイナスの見方があるのと同じだ。プラスの面をみつける事とそれを強調することは、自分をだます形が違う。

 

 

 例2

 退屈でつまらないデート

 私によくある別の例。独身だった時、退屈なデートの問題に直面した。一般に独身の者は、これを克服できない障害のように見る。いうまでもなく、それは全くの時間の浪費だ。金を失うより時間を失う事をいつも心配している人のように、そして、疑いなく4年間ほとんど退屈だった。-----そして私は、完全にきらいな退屈なデートの候補者になった。しかし、正直に言える事は、最も退屈なデートでさえ、時間の浪費だったとは感じていない。

 全ての状況で、プラスの面を見つけるという考えを用いたおかげで、私は退屈なデートをひっくり返した。-----特に最も退屈なデート-----で経験をつんだ。私は人を退屈にするものを見つける事に決めた。これは皮肉でも、くさしているわけでもない。----退屈なことは性格の欠点ではない(事実、悪人で得に面白い人も多い)。完全なマイナスの中にプラス面を見つける場面に、どうすれば方向転換できるかを把握するためだ。

 私はデートで退屈になればなるほど、彼女に質問を浴びせた。退屈な人の本質と性質を判定するためだ。-----そして、面白い人についても、また、同様にした。私は、その領域について、多くのことを学んだと思う。そして、後に、若い人への講義でこの洞察を応用した。---------彼らがもっと愉快な人々になることを期待して。私は、他のことの合間にも学んだ。それは、ある人々は情熱が欠けている。そして、情熱の欠如は人々を面白くなくさせる。自己反省の欠如は人々を退屈にさせる。誰かにとってのみ、興味をひくこと、または、大きなテーマは、人々を退屈にする。そして私は学んだ。どのように、そして、どうして、退屈になったか。手短に言うと、退屈なデートから私は成長したのだった。もし、あなたが成長を評価するなら、実際に全ての場面を評価するだろう。なぜなら、あなたが学べなくて、成長できないような状況は、あまりないからだ。

 つまらないデートの時、女性は必ずしも退屈な人ではないが、私と共通の話題がほとんどないか、稀に嫌われた場合だ。私はこれらのデートからも学んだ。初めに、私について。なぜ、この女性とは、あわないのか? 彼女と私がこんなに違っているのは、何のためか? この女性をもっと好きになれなくしている事で、私に欠けているものは何か?

 私たちはつまらない、または、退屈なデートを利用することができる。ディナーパーティー、人々について学ぶミーティング。一般に、私たちは社会的に結びついている。退屈でつまらないミーティングは、従って、10分と一緒にすごさない人々について学ぶ稀な機会だ。 

 

 

 成長を評価しよう。そして実際に全ての状況を評価する。

 もちろん、1階のアパートとつまらないデートは人生の最も困難な状況ではない。しかし、実際、全ての状況でプラス面を見つけられるという法則は、ほとんどの場合は当てはまる。

 他の例を見る前に、最後に、次の事実を指摘しておく。実際に全ての状況でよい事を見つける事が出来るということは、次の考えではない。「全ての事は最善へ向かう」。この考えは、不幸な事にナンセンスだ。最善にならない事例も数え切れないくらいある。

これを否定することは、あまりにも多くの人が経験している現実の恐怖を否定する事になる。殺人で亡くなった犠牲者は「最善へ向かっている」と思えるだろうか? ナチズム、クメール・ルージュ、毛沢東の文化革命、ルワンダの大虐殺、20世紀の最もよく知られた恐怖の数例に過ぎない。それらの極悪による犠牲者や、彼らを愛していた人々対してなされたことについて、彼らは、「最善にむけて」と見るだろうか? もしあなたの子供が酒酔いドライバーに殺されれば、「最善に向けて」といえるだろうか?

 上述のように、私たちが遭遇する最悪の状況には、まだ何か良いことを搾り出せる余地がある。または、良いことを搾り出す余地がなかったとしても、良い方向へ転換できる(諺「レモンも搾ればレモネードになる」)。17章で述べたように、私の甥ジョシュア プレガーはひどい状況を変えた。-----トラックにぶつけられた後、麻痺させられた------大変積極的な方向へいった。ジョシュアの将来計画は、医者になり、トランペットを上手に演奏し、優れた陸上競技選手になることだった。事故の後、彼は医者になる計画を捨てた。もはやトランペットは演奏できず、どんなスポーツにも参加できなくなった。一方、事故の結果、彼は興味のあることを開発して、自分の能力------書くことのような------を見つけるように努めた。しかし、興味のある事を見つけ、開発できないかもしれなかった。何年か後、彼は洞察と賢明さを得た。そして彼は多くの麻痺した犠牲者を救った。今、ウオールストリートジャーナルの記者になり、恐らく、それまでより幸福になっている。彼は悪い状況をプラスの状況に変えた。(一時の悪い事を拒絶することを除いて)。

 もし足の骨を折って、1ヶ月寝ることになったら、大切な読書をするチャンスだと考えよう。もし配偶者を見つけられなかったら、友情を続け、深めるチャンスだと考えよう。そして、もっと働き、あなたの好きな趣味を開発するチャンスと考えよう。もし結婚していて、子供を身ごもることが出来ないで、子供を養子にもらわないことにするのなら(不合理だが、よくある普通の決断だ)*、結婚生活に集中して、他人の子供にやさしい大人になるチャンスだと考えよう。子供たちは、得ることができる全ての大人の愛を必要としている。そして、親にはできない方法で、親を除いて、もっともよく子供に接する。

 ラビ(ユダヤ教の聖職者)のハロルド クシュナーは、長く重い病のために息子を失った。悲しむだけではなく(失った事を悲しむ事は幸福には不可欠)、彼は強いショックを受け、この悲惨な病に苦しんでいる百万の人々を救った。--------彼の本「善良な人に悪い事が起こる時」と、彼の講演を通して。

 プラス面を見つけようとする事は、実際に全ての状況で祝福される事がわかる。すべての状況で嫌な面を見つけようとする事は、災いの基になるだろう。幸福自体について、これは主にあなたが決めていることなのだ。

 

 

 

 

 

 *子供を養子にもらいたくない人の決断は、多くの理由から正しくない。そして、私の本「2回考えなさい」の中の「赤ちゃんのリチャード」というエッセイの中で、彼らは語っている。4歳の男の子が1995年にイリノイ州スプリーム裁判所の命令で彼の親から連れてこられた。そして、生みの父親に決して男の子に会わないようにという判決だった。ここでは次のように言えば十分、ということに留めておこう。生まれ変わりを養子にしないという決断は多少次の感じや考えに根付いている。--------養子にもらった子供を実の子供と同じくらいに愛せない(完全に間違い)、また、私たちは実の子供を持っている時、子供の遺伝子は共同出資されているので、遺伝的に、感情的、精神的問題が起こりにくいと思う。(ほとんど間違い:私たちは自分の遺伝子についてよく知らない。そして、私たちが知っている範囲では、ほとんど知らないことが、遺伝子より有望だという事はあまりない。)

 

 

 

第24章  緊張を受け入れる

 

 私たちは苦痛を好まない。そして、それを避けようとしている。しかし、前に議論したように、苦痛から逃げようとすると、不幸な人生になる。

 緊張は良い例だ。緊張は苦痛になるので、人はそれを避けようとする。そして、そうすることで、幸福になるチャンスが減っている。にもかかわらず、緊張はいかなる成長にも欠かせないものだ。緊張のない人生は浅薄だ。緊張がないというのは、人の人生というよりは動物か植物の特徴だ。もし、あなたが人生に緊張をもっているなら、それは、競争する必要があることを意味している。------それは人生全体の特徴であって、不幸な人生ではない。

 私たちは緊張を望んでいない。しかし、一時の反省の後、緊張がない事はひどいことだということに気がつく。例えば、性的な緊張を望まないだろうか? カップルにとって、性的な緊張は、経験しないより経験したほうが、良くないだろうか? 結婚生活以外で性的な緊張を経験したくないとさえ思っているだろうか? 例えば、配偶者以外の人と性的な刺激があるが、行動をおこしていないようなこと。 これは、元気で活気があることではないのか? 私の父、マックス プレガーは次のように言うのが好きだった(母も賛成している)。「もし私が見ようとしなくなったら、葬ってくれ」 私たちは仕事で緊張したくないか? 今まで、緊張無しで何かを成し遂げた人はいるか? 

 人生で熱中すればするほど、人生はより豊かになり、経験する緊張は多くなるだろう。緊張を避ける唯一の方法は、自分の感覚を麻痺させることだ(麻薬中毒の魅力だ)または、競争する必要はない、単調な人生を送ることだ。成熟と幸福は、緊張することを要求する。実はありがたいものなのだ。私たちが望まないものは、不必要な緊張、または、普段感じている不必要なストレスや悩みだ。

 

 

 ストレス または 悩み

 両方とも苦痛で避けられないことだが、必要な緊張と不必要な緊張にも大きな違いが有る。私たちがストレスまたは、悩みと呼んでいるものがそうだ。緊張は普通、活気や健康の印だ。そして、その結果、不幸にはならない。一方、慢性的なストレス、悩みは普通、体にも幸福にも、不健康だ。従って、出来るだけ減らすべきだ。

 悩み、またはストレスは、殺していく----タバコのように。他にも多くの事がある。しかし、ストレスはタバコより価値がある。少なくともタバコは楽しみを与えるが、その前に喫煙者の3人に1人は早死にする。悩みは、一方、苦痛を与えるだけだ。そして恐らくタバコよりもっと多くの人を殺している。

 もしあなたが大きなストレスがあるなら、できるだけ正確に原因を突き止め、ストレスを取り除くために出来る事をすべきだ。そしてストレスと付き合う方法、無視する方法、少なくとも最小にして生きる方法を学ぶべきだ。

 結局、どのようにして悩みと緊張を区別できるのか? 2つの判断基準を示す。1つめは、あなたはそれによって成長しているか? もし成長しているのなら、あなたが経験する事は必要な緊張と見なせる。もし成長していないなら、苦しんでいるだけで、不健全な悩みだ。2番目に、もしあなたが経験していることが、幸福につながらないなら、それは悩みであって、健全な緊張ではない。例えば、毎日3時間のラジオショーをゲストなしでやると、不安が増す。しかし、この不安は素晴らしいショーを創り出す助けになる。それは結局、私にとって、幸福の源だ。一方、私が信じているショーの話題のために経営側と闘わなければいけない時、それは単なる悩みだ。そして私は自分の幸福のレベルを維持しようと努力しなければならない。

 緊張で満たされた人生は、本当に幸福な人生になることがある。悩みかストレスで満たされた人生はそうなるはずがない。

 

 

第25章 全てのものには代償がある

----それが何かを知る

 

 

無料のランチはない。

かつて、ノーベル経済学賞を受賞したミルトン フリードマンは、経済のエッセンスを1行で言えるかどうか訊かれた。 「無料のランチはない」と彼は答えた。

 この答えは人生で、経済が何なのかを理解するのにちょうどよい。全てのものには代償がある。幸福に関して、人生の原理原則と関係する3つの法則がある。

1 人生で全てのものには代償がある事を認める。

2 その代償が望む量とあうかどうかを決める。

 3 その代償を支払うか、望むのを止めるかを選ぶ。

 この3つの法則全てに従わなければ、幸福を得るのは不可能だ。-------なぜなら、あなたは、持ち物、する事すべてについて支払う代償に常に腹を立てるだろう。

 

 

 結婚すること、結婚しないこと

 古典的な例だが、結婚するか、独身でいるかという問題に払われる代償が如何に大事かということだ。それぞれに大きな利益と代償がある。

 もし、独身でいることに決めたのであれば、明らかに有利な点がある。-------愉快になったり、愉快なことをする自由がもっと多くなる。他の1人の悪い気分や変な癖に我慢しなくてすむ。(そして、他の1人もあなたの悪い気分や変な癖に会わなくてすむ)。そして、誰とでもデートできる。

 一方、結婚する事にも明らかな利点がある。-----人生のパートナーとしてデートからの解放。他の1人から長期間、もたらさせる唯一の場面、安定性、成長。

 どちらの選択からも全ての利点を得る事はできない。素晴らしい結婚は、相当な自由が得られる。しかし、言うまでもなく、どんなに自由でも、独身生活の自由には及ばない。しかし、いくら独身での関係が気に入っていても、深遠さの点でよい結婚生活にはおよばない。

 結婚生活での共通の問題は、人生のほかの多くの領域でもそうだが、結婚生活と独身生活の利点を両方とも欲しがる人があまりにも多すぎることだ。-------結婚する事に対して代償を払おうとしない。これらの人々は----普通は男性------安心、愛、家族を欲しがる。これは結婚生活の結果と、独身生活の特徴である個人的、性的自由の結果だ。

 これが不可能である事を認めると一歩前進する。いくらかの代償を支払う事は避けられない。賢明な人は結婚と独身の利点をはかりにかけるだろう。必要なもの、性質、価値を勘定して、決定する。そして一度決定すると、支払う代償が如何ほどであろうと、後悔しないだろう。

 述べてきたように、私自身の人生では、私は長い間、独身でいる自由を気に入っていた。(32歳まで結婚しなかった)。しかし、いつも結婚したいと思っていた。第一に子供が欲しかった。そして、結婚しないで子供を持つ事は間違いだと、思っていた。子供は結婚した父母で人生をスタートするべきだ。2番目に、もし独身のままだと、結婚した男性と同じくらいには成長しないだろうということが十分わかっていた。私はジョージ ギルダーのすばらしい独身男の叙述にある 「裸の遊牧民」 の生活をしたかった。女性から女性へ、ベッドからベッドへ渡り歩きたかった。官能的な刺激的な人生のために。

 ついに結婚した時、私は、結婚に対して、そして独身に対して支払う代償を考えた後、そうしたのだった。代償を払うという合理主義的な考えで結婚することはロマンチックでないと思う人がいるかもしれない。しかし、分別のある代償の支払いという考えはロマンチックなだけの結婚よりも、変わらない愛になる。どの結婚でも、多かれ少なかれ、愛がある間は多少の情熱がある。愛と情熱が少ない時、合理主義的な能力は、なぜ結婚したのか思い出させる。

 一方、私には、仲の良い独身の友人が2人いた。彼らは結婚制度に対して深い関心を持っていた。そして、結婚しないことに対する代償をわかっていた。しかし、彼らは自分自身を知っていて、結婚の代償は高すぎると判断した。

 ほとんどの独身は、幸福そうな結婚したカップルを見て、時々、自分が正しい選択をしたかどうか疑問に思う。これは自然だ。そして、結婚している人は次の事を認める必要がある。時々独身になりたいと思う事は完全にノーマルで、よい結婚生活と両立できる。

 あなたが結婚する事を選んでも独身でいる事を選んでも、どちらのケースでも支払わなければならない代償を知っている事で、代償を支払う事ができるようになる。結局支払わなければならない時は、もっと受け入れやすくなり、怒りは遥かに少なくなる。

 

 

 子供を持つこと、持たないこと

 子供を持つという決断は、支払い可能な代償として多くあることがわかるに違いない別の例だ。代償を考えること無しに結婚する事は、子供を持つ事の代償を強いられるということに気付くことなしに親になるのと同じくらい危険だ。結婚は、結局、破綻することもある。そして、その複雑な人々は追い払われる事がある。しかし、親子関係は解消されないかもしれない。もし、親が子供を捨て去っても、子供は「追い払われる」ことができない。

 なぜ、自然は、簡単に楽しく子供を妊娠させるのか。これを理解するのは簡単だ。----自然は種が存続するように配慮している。しかし、自然は、個々の種の幸福には配慮していない。たやすく子供が出来る事は多くの人にとって悲劇になる。単に性的な喜びの結果、親になる人があまりにも多すぎる。親の責任について深く考えた結果ではない。または性行為で結ばれた代償になっている。私の父はよく言っていた。「プレッツェル(菓子)を売るには免許(許可)がいる。しかしどんな馬鹿でも子供は持てる。」

 子供を持つと莫大な代価が払われる。そして子供を持たなくても莫大な代価が払われる。これらの代価には、人生の他のどんな決定より大きな配慮が必要だ。決定がどうであれ、それぞれのケースで支払われる代価は法外なものだ。これは私が子供を持つように勧めようとしなかった理由だ。しかし私は多くの人に(特に男性に)結婚するように勧めた。社会のために、個人のために、圧倒的大多数の人は結婚すべきだ。しかし、社会のため、込み入った個人のため、親になるべきでない人はたくさんいる。

 

 

 子供を持つことの代償  子供を持つことで支払われる代価は家族の章で議論している。しかしここで手短に言い直すと、

 ・子供はどの結婚生活にも大きな挑戦をもたらす。両親または結婚生活が良くなるかどうかは問題ではない。

     子供は両親の個人的な自由を大きく減らす。

     子供はカップルがそれぞれに多大な時間を過ごすことを阻む。

 ・子供は親にずっと弱点を与え続ける。子供があなたの人生に入ってきた瞬間から、あなたが如何に傷つきやすくなったかが明らかになる。子供の苦痛はあなたの苦痛よりもっと大きい。あなたは子供の事を心配する。子供の幸福、健康、知性、成功、友人、結婚相手、傷つける人、もちろん死についても。

     子供には大金がかかる。

 

 

子供を持たないことの代償   一方、子供を持たない事の代償も大きい----そして私にとってはあまりに大きすぎる。それは私が父親になることにした理由だ。子供を持たない事で次の機会を持てなくなる。

 

 ・子供に愛を与えること。多くの愛を与えてもらう人で、子供より望まれる人はいない。

 ・子供の愛を受け取る事。あなたの所に走ってきて抱きつく子供がいる家に帰ること。これは、手に入れることができる最も感動的な経験だ。

     親を経験すること。この経験は人生と人々についての比類のない教師になる。

     あなたが子供の時、両親から受け取らなかったかもしれない事を他の子供に与える事。

私の世代の多くの男性は、例えば、子供に感情を露骨に示す父親はほとんどいない時代に育った。子供に愛情表現することは感情的な欠陥を満たす男性にとって、良い機会だ。

     大人として、家族をつくり、経験すること。

     孫を持つこと。

     他の世代に宗教と価値を手渡すこと(しかし、これは子供を持たなくてもできる)。

 

子供なしでは、これらのいずれも持つ事ができないという代償がある。私の子供たちのうちの誰についても、事が難しくなる時、私は次の事を思い出す事ができた。私は大きな代償があることをわかって父親になることにしたのだと。あなたは有利な点をわかっていて、代償を支払うことにしたと思うとき、人生の問題を受け入れるのに、遥かに良いところに位置している。

 

 

 

 全ての事に当てはまる法則

 全ての事には代価があるという法則の大切さは、恐らく誇張される事はない。従って、ほとんどの人は普段それに当てはまっていないと不幸になる。このことを明らかにしよう。この法則は人々が引き受ける全ての行動に適用される。もしあなたが下した決断に何の代償もなかったと考えるのなら、その問題を考えていなかったということだ。

 ある人は失望したとき、いつも、次のように問い続けているかもしれない。「私が支払う代償はどのくらいなの?」 失望だけではない。結果、あなたの幸福に計り知れない加算がある。第一に、あなたは代償を支払わねばならない事に気づいたとき、ショックと失望による不幸を防ぐのに多大な助けになる。2番目に、この法則は次の事を明らかにする。あなたが選んだことは何でも代償になる。多分、より大きな代償だ。

 あなたは行うこと全てに代償を支払わねばならないことを知る事は、------または行わない事を選ぶ事は----あなたが買うもの全てに代価を支払わねばならない事を知るより失望しない。あなたが「代価はいくら?」と訊けば訊くほど、人生の問題を取り扱う準備が整う。

 あなたが行うこと全てにこの法則を当てはめれば、2、3日で良い考えが思い浮かび、取るに足らないような事になる。これは馬鹿げているが、本当の例だ。もし私がいつも歯を糸楊枝で磨くと仮定すると、何かを楽しめなかった時間という代価は払っている事になる。また、できるだけ早くベッドで疲れた体を休める事ができないという代価を払っている事になる。一方、もし糸楊枝で歯を磨かないとしたら、ある日、歯肉炎や虫歯で苦痛を与えられるかもしれない。どちらの代価を払いたいか?

 別の例がある。もし私が、今夜2、3時間テレビを見たとする。私はそれを楽しむだろう。そしてリラックスする。一方、私は多分、翌朝、見たもの全てを忘れてしまう。そして値打ちのある時間ではなかったと思うかもしれない。そのうえ、私は次の時間をとれなくなるだろう。子供、妻、友人、またはほかの人と過ごす時間、良い本を読む時間、何かを書く時間。

 仕事主義を選ぶとき、代価の質問は、不可欠だ。しかし多くの人は、その姿勢をとらない。彼らは自分が選んだ職業のプラス面を見ないで、度々、経済的な、そして魅力的な収入だけを見る。例えば、今のアメリカで、法律で成功を求める事は一般的だ。(最近の法科大学の入学者比率では、2076年に全てのアメリカ人が弁護士になると言われている)。しかし法律を生業にするのを止める多数の人に基礎が置かれているため、多くの弁護士候補者は仕事について尋ねるべき、最も大切な質問に向き合っていないようだ。その仕事を楽しめるか? その仕事は人生に意味を与えるか? (仕事を楽しみ、意味を見つける事は幸福を増やす---10章を参照。成功と幸福は同等だ。)

 選んだ仕事主義が何であろうと代価が要求される。働く多大な時間は代価になる。あなたの子供の多くは代価を要求される。家を所有するには代価がいる。アパートに住むのに代価がいるのと同じように。または、町に住む事、田舎に住む事と同じように。宗教生活を続けるのにも代償がある。そして非宗教的な生活にも代償がある。親の近くにすむのも、他の町に引っ越すのも代償がある。

 払われる代償のリストは私たちが乗り出す行動のリストと同じくらい長い。なぜなら、それぞれ、代償を要するからだ。ここで、人生のどこでも、従って、幸福にも明らかに求められる(代償が何なのか決まっていれば)。そして成長する(行う事を決心すれば、少なくともその時、不満はないか、あまり大きくない)。

 

第26章  性格のより低級な部分を受け入れる

 

 

 性格のより低級な部分で、私たちは人間になっている。----そして偉大な力を秘めている。

 全ての人に下劣な部分がある。私たちには次のような傾向がある。卑劣、わがまま、妬み、残虐、大食、不正直、肉欲、貪欲、無責任、快楽主義。この悪い傾向を全て持っている人はいない。そして全ての人には、このような傾向が多少ある。結果、大変立派な人でも、全て、または、ほとんど全てのマイナスの特性に向かう傾向がある。-----なぜなら、素晴らしい性格はマイナス部分を持っていないと言うより、むしろ、性格の最も悪い部分と闘うことによって決まる。

 理解する上で大切な事は、卑しい部分が如何に普通で自然かというだけではない。卑しい部分があることで悪い事は何もない。悪い事とは、悪い事を行うことであって、悪い事を考えることではない(例外がある------次章参照)。そして、悪い事は、単に悪い傾向を持っているという事ではないのは確かだ。

 私は青年期にさしかかった頃、度々、自分の性格の汚い部分にうろたえた。

宗教的、道徳的訓練の課程で、自分の暗い部分を形成しているものを知らなかった。私のようなやさしい魂にそのような傾向があるのか(!)と思った。そして、しばらくの間、宗教の核心の教えを取り入れるようにした。その教えは考えではなく、人の親切について規定している。そうすることによって、この暗い部分にも安心できた。結局、なぜ暗い部分があるのか、どのようにそれをコントロールするかを学んだ。

 悪い傾向をもっていない唯一の人は死んでいる人だ。-----文学的にも比喩的にも。十分活力があるという事、本当に十分に人であるという事は、暗い部分の傾向を持っているという事だ。私たちを最も人間らしくして、特徴や情熱を与える性質の中に、暗い部分の傾向がある。

 性格でより低級で悪い部分は、単に障害ではないというだけではない。実際に有益なのだ。考えてみよう。あなたはどちらと結婚したいか? 性的欲望がほとんどない貞節な人と、欲望がある貞節な人。ほとんどの人は後者だろう。-----なぜなら、そのような人は、より活力があって、より道徳的だからだ(存在しない欲望で行動しないことは、美徳ではない)。

 これは、情熱のある人、野性的でさえある性質のある人が、普通、特に異性に対して、より面白く----そして欲望的か-----という理由だ。不運にも、しかし、多くの人は度々、次のように考え違いをする。情熱を低くコントロールしている人には、情熱がない。例えば、多くの女性は、自分の情熱をコントロールしない男性に繰り返し惹かれる。-------そして繰り返し傷つけられる。-----一方、彼女たちは、自分をコントロールしている同じくらい情熱的な男性を退ける。間違って、これらの男性を刺激的でないと却下する。(この現象は、「ばか者はいつも女をゲットする」という事で知られている)。

 卑しい考えと欲望を持つ事は罪だ、と宗教に属する人が教えている時、その一員として、私は悲しくなる。時々、そのような考えや欲望に従って行動することも罪であると教えられる事さえある。しかし、純粋な心は聖人のような想像上のものかもしれない。残りの私たちのようなやつらにとって、行動をコントロールすることも、十分に達成するのは大変なのだ。

 かつて私のラジオショーで受け取った電話で最も痛切なものの一つは、ある中年男性からのものだった。彼がいうには、この10年間、彼は一人で病気の母を経済的、感情的に支えていると。彼は母をとても愛している。しかし、彼の負担はとても重く、時々、母が病気に負けて死んで欲しいと思うとの事。彼は罪の意識に打ちひしがれていて、自分を恐ろしい息子だと考えていた。

 私は彼に言った。そう感じるのは、君だけではない。君は恐ろしい息子ではない。特に素晴らしい息子だ。君の考えは普通で理解できるし、行動は模範的だ。悪い息子どころか、模範的な息子にずっと近い。

 アンビバレンス(愛憎が両方あること)なしで全ての良い事をしている人はいない。両親は確かにこの事を知っている。夜中、泣いている赤ちゃんをあやすのにイライラせずに起きる親はいるだろうか? どうしても必要な休暇を削って、全ての金と時間を子供の教育にかける親はいるだろうか? ------子供が負担を感じるのであれば間違っている。

むしろ、そのような考えに罪を感じるより、そのような親は、子供たちに働きかけない自分に自信を持つべきだ。

 

 

 2つの両極端:いつも我慢する事といつも発散する事

 より卑しい衝動について、2つの両極端の一つに当てはまる人が多くいる事がわかった。彼らは、常に自分の感情を抑えているか、いつも発散している。

 善人になりたいと思っている人は度々、そのような低級な感情が罪だと思っているので、平安を得る事は、それらを行動に移すことではないかと思っている。この見方では、感情を抑える事は、最良だ。一方、現代では特に、反対の傾向が主張されてきた。多くの人はマイナスの感情を抑えないというだけでなく、熱情的、行動的に発散しない事は自殺的だと思っている。

言葉での発散について、これは一般に健全なやり方だ(礼儀正しい人には)。泣き止まない赤ちゃんをあやすのに毎晩4回も起こされて発狂しそうになっている時、母親は、夫か、仲の良い友人に話す事はできるだろう。ラジオショーに電話してきた男性は、母が病気に負けてしまって欲しいという感情が偶にあることを誰かにぶつけても良いだろう。しかし、この種の言葉の発散には基本的な警告がある。母親は、自分の感情を助けにならない幼児に発散すべきでない。そして男性は自分の感情を母親に話すべきではない。

 一方、そのような感情を行動で発散する事は、ほとんど受け入れられない。母親も男性もこれらの感情で行動すべきではない。もし、母親がその感情を行動に移したら、幼児虐待になることは間違いない。(実際に全ての親はどのように幼児虐待が起こるかわかるようになる)。もし私に電話してきた男性が悪い感情を行動に移したら、殺人者に成り下がる。結果、西洋の現代の行動は、「医者が自殺者を補助している」を公認している。年輩の両親が、重病で死ぬことを、成人した子供が行動に移すことはその一例だ。

 私たちは、良心的な生き方と精神的に健康な生き方が矛盾していると思うことが度々ある。なぜなら、昔は抑制することを要求され、後には発散する事が求められているのだから。これは真実ではない。良心的であって、かつ精神的に健康なものは何一つない。しかし、より良くは、良心的な行動と精神的な健康は補完しあう。一般に、精神的な健康は、人をより良心的に行動させる。(確実ではないが)。 そして自分をよく抑制しているとき、私たちは最も精神的に健康だ。

 良心的な生活を導く主要な部分は、自分の邪悪な部分を識別して、コントロールできることだ。そして精神的な健康と幸福の主要な部分はどのようにこの部分を識別して、コントロールするかを学ぶことだ。そうすれば私たちは自分のこのような邪悪な部分をどうすれば無害に発散できるかが学べる。それは次章の課題だ。

 

第27章  低級な部分の無害な発散を認める

 

 

後ろ向きで邪悪な衝動と気持ちがあっても、それを行動に移さなければ、幸福、または良い生活を妨げない。これは更に述べる必要がある。

 

 低級 vs 邪悪な考え

 考えと行動の両方に関し、低級な事と、邪悪な事は、区別されなければならない。宗教について書くとき、私は、不道徳(邪悪なこと)と、神聖でないこと(低級であるが、必ずしも邪悪ではないこと)をもっと正確に区別している。不道徳と神聖でないことは、同じではない。多くの信心深い人はそう考えていても。不道徳な行動(例えば、票集めのため、罪のない人を非難する)は、全て、神聖ではないが、全ての神聖でない行動は不道徳とは限らない。

 神聖でない行動は神聖さの慣例をぶち壊すが、必ずしも道徳の作法をぶち壊さない。例えば、ポルノ写真を見ている男性は神聖でない行動をしているが、不道徳ではない。モデルのポーズはいんちきか、または、強制されているものだと知っている場合は。ただし、この写真を見る事が妻への愛を傷つける場合、最も悪い例では、写真が子供のものだった場合を除く。あまり感情的に険悪でない例を引用すると、ボールに顔を突っ込んで食べている人は不道徳ではないが、神聖なマナーではない。

 低級と、邪悪な考えの違いについて理解するため、長く病にかかっている母に死んで欲しいと思うと語った男性に戻ろう。この考えは明らかに高尚ではないし、神聖でもない。しかし、その考えは邪悪なものではない。もし彼が母親を殺せば、その考えは邪悪なものと言える。しかし彼は、決してそのように考えなかった。彼は、母が病気で死ぬ事を夢想していた。しかし、それは高尚ではないし、邪悪でもない。----それは単に低級なのだ。

 

 低級な考えと気持ち

幸福という点からみると、低級な(邪悪と反対のような)考えというのは、一般的には問題ではない。低級な考えを全て撤廃するためには、素晴らしい人以上にならなければならない。人である事を止めて、天使にならねばならない。天使だけが下品な欲望をもっていない。

信心深い人で、低級な考えを追い出そうと熱望している人がいる。彼らは従って、この不道徳な世の中の多くの事と接触するのを避けようとする。彼らは世の中を避けて、修道院、学習院、宗教団体のようなところへ行く(それ自体は宗教的だ)。低級な考えを根絶しようとする欲望は、性的な問題について宗教的な最大の関心事のよりどころとなっている。次のような例がある。イスラム教徒は、女性の体は完全に隠されているべきだと考える。-------女性の肉体を見なければ、低級な考えも起こらない。キリスト教徒は、マスターベーションは重大な罪だといっている。--------マスターベーションは低級な気持ちを具体化している。そしてユダヤ教徒は、配偶者を除き、いかなる異性とも握手するようなことさえ慎んでいる。----------体が接触しなければ、低級な気持ちが起こらない。

もう一方の極端では、現代の世俗的な世の中の多くには、神聖という概念がない。従って、低級な気持ちには、ほとんど問題がない。このように、例えば、性的に明白な掲示板やテレビショーが社会に染み渡っている。性的な感情を奮起させるのに大金が動いている。巷での下品な言葉は平凡なものになっている。

どちらの極端も幸福にはつながらない。なぜなら、両方の極端は低級な感情に心を奪われた人たちを生む。両極端からは何も得られない。両極端を抑制しない人は、まもなく現代社会の快楽主義的な刺激に支配される。同時に、神聖でないことを決して考えようとしない人生を過ごす人は人生の多くのことから隠れることになるかもしれない。または、世間----正確に言うと、彼らが考える最も多くの事-------について考えないようにしている人のようになる。

 ここで幸福へのカギとなるのは、他のことでもそうだが、バランスだ。このバランスは、私たちの天与の性質と同様に、(より低級な)動物的な部分を認めることによって達成される。聖書の創世記で、「男を創ろう」と神が宣言する時、その私たちは神と動物になるように想像されたのかもしれない。私たち人間は、神の生き写しとして創造された。そして動物の生き写しとして創造された。どちらかを根絶しようとするのは、間違いだ。私が出会った中で最も幸福でない人々は、両方とも認めようとしない人々だ。低級な考えを我慢しようとする信仰的な人たちは、度々、非現実的で、機械的な俗人に見える。そして、彼らは常に、低級な性質のため、魂をなくし、快楽の追求にふけっている。

 幸福になるため、私たちは魂を満たす必要がある。そして自分の動物的な部分と仲直りする------しかし、動物的な部分の要求は満たさない-------

 

 

 邪悪な考えと気持ち

 一方、低級な考えは生活の一部だ。そして幸福な人生にとって、受け入れる必要がある。邪悪な考えは、ほとんどいつも幸福にとって有害だ。そして、できるだけ避けるようにすべきだ。これを説明するため、時々母が病気に負けて欲しいと願う男性に戻ろう。前に述べたように、彼は母を殺そうとは思わなかった。しかし、もし殺していたら、彼はほとんど間違いなく不幸な人になっただろう。彼の幸福は耐えることだろう。なぜなら母を殺す事を考える罪のため、暴力をじっと耐えるため、邪悪な考えは人を不幸にしている。私たちはみんな別の効果に気付いている。やさしい考えと邪悪な考えは私たちの感情の中にある。

 

 

 邪悪な考えで行動する

 もし邪悪な考えが幸福を破壊するのであれば、どのくらいの考えが悪の行動になるのか。(もし邪悪な行動が人々を幸福にするのであれば、人は自滅しただろう。しかし、問題は悪の行動が幸福を増やすことではない。本当は減らすのだ。問題は悪の行動は一時的に喜びを増やすことだ)

 邪悪な振る舞いとは次のようなことだ。罪のない人を傷つける。道徳的で幸福な生活のため、いつも避けられる。このように男性が長い病の母に死んで欲しいと願ったかどうかは問題ではない。彼は母の死を早めるようなことは何一つ行っていないに違いない。それは邪悪だろう。彼は自分の気持ちを落ち着かせねばならない。しかし彼は、行動に移すべきではない。同様に女性は彼の夫の前妻(または、前の夫の妻)に死んで欲しいと思っているかもしれない。しかし彼女はその女を傷つける事はできない。

 もし人々が、邪悪と不幸の違いを理解していれば、世の中はずいぶん良くなるだろう------そしてもっと幸福になる。

 

 邪悪な考えはすべて自己破壊的だ。しかし、暴力的な考えは全てが邪悪で自己破壊的とは限らない。邪悪と暴力には違いがある。暴力的な行動の全てが邪悪ではない(例 警察官は、暴力的な犯罪を鎮圧するのに暴力を使用する)。一方、全ての邪悪な考えは、破壊的だが、暴力的な考えの全てはそうではない。第2次大戦のホロコーストの間、ナチを殺したいと夢想したヨーロッパのユダヤ人は、殺人マシンのクラッチから自分たちを自由にしたいと願うのは当然の願いだ。一方、大戦後、ドイツ人を殺したいと考えるユダヤ人は自分を悲惨にしている(なぜなら、全てのドイツ人はナチではなかった。そして邪悪な考えをもっていなかった)

 

 

 

 

 低級な気持ちで行動:適度な悪習

 低級な部分をどのようにするか?

 人は、圧力なべのようになることがある。人生がお決まりに作り出すプレッシャーを、決して解放しないとすると、私たちは、それを内側(うつ状態)か、外側(暴力)へ爆発させるだろう。一方、常に低級な気持ちに屈服していると、惨めな人生になる。成長もなく、孤独になる。なぜなら、自分の事だけに夢中の人を好きになる人は、あまりいないからだ。

 従って、低級な部分をいくらか表現することは可能だとする議論を提供する。または、言い方を変えると、適度に邪悪でいる事は許されるという事だ。少量のアルコール、タバコ、少々の浪費、ギャンブル、少々性的なもの、テレビの見過ぎ--------これらは高尚な楽しみではない。しかし、ほとんどの人にとって、それらはプレッシャーを開放する助けになる。問題は、それらは簡単に増加してしまうことだ。------そして、惨めな人生になっていく。多くの人は従って、これらのことを適度にさえ、する事が出来ない。もしあなたは彼らの一人であれば、その活動が増加しているかどうか確認してみよう。そして決して、彼らの一人にならないことだ。アルコール中毒者のように、少しは大丈夫と思うべきではない。

 ほとんどの人は、これらの行動で適度でいることができる。多くの人は時々、カジノに行ってもよい。準備するお金に適当な制限をつけて、いくらかのギャンブルを楽しむ。準備した金がなくなった時は止める。これができない人もいる。そのような人はカジノへ行かないようにすべきだ。

 多くの人は自分のアルコールの量をコントロールできる。彼らは社交的に飲むだろう。または毎晩マルティーニを楽しむだろう。他の酒を追加せずに。これが出来ない人はビールでさえ飲まないようにすべきだ。

 「適度」は悪く聞こえる部分がある。「退屈」という意味にも聞こえるからだ。真実はこうだ。もし、あなたが、適度に癖があり、人生で情熱的であれば、低級な刺激に屈服して何もしないよりも、人生を楽しめるだろう。

 低級な部分と、それを害のないように搾り出す方法を学ぶ事は、幸福にとって不可欠だ。

 

 

第28章  善を行うことの探求

 

 

 次のように考える人が多すぎる。善と幸福の間に、何か関係があるとすると、反比例の関係だと。------野球監督レオ デュロチャーの不朽の言葉を借りると、「いいヤツは、最後を決める」。 善行と幸福とは全く関係ないか相反する、人々は何故このように思うかを理解するのに、この言葉はぴったりだ。周囲を見渡すと、騙し取って、逃げ、利益を得る人がいる。レオ デュロチャーのずっと以前から、人は次の疑問を持っていた。「何故、善人が我慢して、悪人が成功するのか?」

非道徳的な事をすると、その時は利益になる事がよくある。これは疑いの余地がない。悪い事をして利益がないなら、誰もそんな事をしない。人々は大きく騙し取る。なぜなら、その時、利益になるからだ。同じ理由から、ウソをつき、盗み、殺し、レイプする。

 善と幸福に関して、意味のある問題とロングラン(長期興行)は関係がある。人生で、良人は悪人より幸福にみえるだろうか? 答えはイエスだと思う。理由は、内なる心の平安だ。あなたが知っている立派な人を考えてみて欲しい。次にあなたが知っている最も悪い人を考えてみよう。どちらのほうが、内なる心の平安があるだろうか? この問題を聴衆に持ち出す時、いつも、答えは満場一致だ。善良な人のほうが、より大きな平安があると。

 私の人生と調査からも、これは正しい。-----これが、善良さがより大きな幸福をもたらす2番目の理由だ。もし、他人を騙す人生を歩めば、他人もあなたを騙したりすると考える事になる。これは20世紀の最悪の1人だ-------今世紀、権利の大競争があった----ソビエトのジョセフスターリンは、偏執症(病名)だった。彼は、自分が他人にもてなしているのと同じように、他人も自分にもてなすように期待する人生を送った。

 悪い人生になるもう一つの不幸な成り行きを見てみよう。------孤独と愛の欠如。悪は、金、力、名声を得るかもしれない。しかし、悪は友をつくることはない。(おべっか使いを得るかもしれないが)。アルバート スピーアは、アドルフ ヒトラーの腹心だった。ヒトラーには友人が一人もいなかった。そして飼っている鳥といる時のみ、人間的な感情を見せた。 一千万人の罪のない人々を苦しめたの同じくらいに、ヒトラーは苦しんだだろうか? もちろん、そうではない。それは不可能だ。彼がもたらした苦痛を感じはじめるには、来世紀の間、毎日ずっと、拷問を受けなければならないだろう。

 従って、悪人が、罪に値する苦痛を生涯で経験する、とは言わない。私が言っているのは、悪い事には、幸福が少なく、心の平安や愛もほとんどないという事だ。もしあったとしても善良な人より友人は少ない。そしてより素晴らしい人々に囲まれていると、多くの愛を受け取る。友人を持つ事は幸福への大きな貢献になる。

 

 

 善と幸福は、同じ質だと断言できる

 善と幸福の関連性について、最も偉大で理論的な議論は恐らく次の通りだ。善と幸福の最も重要な特徴は、同じ-------感謝の気持ち。感謝なしで、善良な人になることは出来ない。感謝なしで、幸福になれる人はいない。これは、善と幸福の間に重大な関連性があることを証明している。

 従って、善になることよりも幸福になることに興味があっても、あなたは、善と幸福の両方の成分を磨かなければならないだろう。幸福になるために更に感謝できるようになる事で、より善良になる。なぜなら、感謝はあなたをより善良にするからだ。人の性質は基本的に善でないとしても、私たちは、善になるように設計されていると私は思っている。これがその理由だ。(人の性質は善でも悪でもない。私たちはどちらの方向にも行きやすい。----「少しの時間考えよう」の章 「人の性質」参照)。

 要約すると、ほとんどの人は、自分の経験から確かめる事が出来る。幸福になればなるほど、内なる心の平安が得られ、より善良な人になる。悪いことをした後の気持ちと、特に素晴らしい事をした後の気持ちで、幸福を比較してみよう。これはすべての偉大な宗教の“秘密“で、賢明な仕組みなのだが-------あなたは、自分自身と自分のエゴから離れれば離れるほど、心の平安が得られる。

 問題は、このことを理解するのに、賢明さが必要なのだ。そしてほとんどの人は人生の晩年になるまでに賢明にならない。年をとった人に聞いてみるといい。人生で何か悔いがあるかどうか。彼らは自分が行った善について悔いはないだろう。もし悔いがあるなら、悪いことをし過ぎたのかもしれない。

 

 

第29章  自己抑制力を磨く

 

 

 もし、幸福への唯一で最大の障害が、人の性質だとすると、幸福への唯一で最大のステップは、自分の性質をコントロールすることだ。しかし、幸福について考えるか、書かれるとき、自己抑制はめったに強調されない。

 いくつかの理由がある。自己抑制は難しい。そしてほとんどの人は、幸福への近道がほしい。

 2番目に自己抑制は「退屈な人」という響きがある。幸福について考える時、ほとんどの人は、面白いこと、欲しいものを得る事だと考える。自己抑制は、その逆だ。それは、面白いことや、欲しいものを否定する事を意味している。自分にノーということは、幸福への王道のようには聞こえない。

 3番目に、自己抑制は売れない。今、本屋で2冊の本が陳列されているとする。1冊の本のタイトルは、幸福---自分にイエスと言い続けよう! もう1冊のタイトルは、幸福---自分にノーといい続けよう! どちらのほうが、売れるだろうか?

 4番目に自己抑制は、時代精神に反する。今の時代精神は、求めるものを得る事を讃えている。そして自分が貧しいと感じ、得られなかった時は、失敗だとさえ感じる。もし中世の宗教的な姿勢が自己否定だとすると、現代の世相は、自分がもっていないことを否定する事といえる。

 しかし幸福は自己抑制なしでは不可能だ。事実、私たちが求めるものは、すべて、自己抑制なしでは不可能だ。あなたが特に成し遂げたいと望んでいることを成し遂げた人に聞いてみよう。各々が、厳しく自己訓練していることがわかるだろう。富豪として生まれなかったアメリカの億万長者について、ウォールストリートジャーナルが、次の記事を書いている。彼らの中で最も共通の性質は、自己抑制だった。

 もし、経済的に成功したいのなら、個人としての、そして職業上での成長に寄与しない娯楽に費す時間を最小にする自己抑制が必要だ。もし、幸福で健全な子供が欲しいなら、こどもと多くの時間を過ごす自己抑制が必要だ(その結果、自分自身のためにしたいことをする時間は減る)。もし、やせたいのなら、日常、エクササイズし、おいしい食べ物や油を控える自己抑制が必要だ。

 自己抑制は最終的には、幸福----自由をもたらす。しかし、不幸なことに、多くの人は自由の大きな価値を正しく理解していない。彼らは自由を“したい事をする事”と理解している。しかし、あなたが普通望んでいることをするという事は、あなたの体や性質が望んでいることをするという意味ではない。これは必ずしも自由にはならない。実際、奴隷に近い。麻薬中毒者は、自分の望むことをしている。----そして彼らは、地上で最も自由の少ない人々だ。自由とは、自分を幸福に出来る事、という意味だ。----そして、それには常に自己抑制が必要だ。

 

 

 自己抑制をどのように開発するか

自己抑制を発達させる2つのガイドラインを示す。

第一に、自己抑制の癖をつけること。私たちは習性の創造物だ。習性が建設的か破壊的かは、問題ではない。もし、自己抑制の訓練を習慣化すれば、それを止めるのは難しくなるだろう。そして怠惰な習慣を身につければ、同様に止めるのは難しい。

 2番目は、ゴールを見失わないこと。もしゴールを見失わなければ、自己抑制を達成しなければならないことを忘れないだろう。そして、自分の性質に屈服しないようにする事。そして自分の性質が望むものより、ゴールが求めることを行うこと。素晴らしいもの-----あなたのゴール-----を持ち続けることによって、自己抑制の訓練が容易になる。それがなければ、自己抑制の訓練は大変難しくなる。

 理想的には、あなたは、いつも2つのガイドラインに執着しようとするだろう。

 例えば、あなたは、本を書きたいとしよう。つねにご褒美を持ち続けなさい。------

本を書いたことからくる幸福-----の気分。その時、規則正しく原稿を書きに取り掛かる癖をつける必要があるので、あなたはさらに自己抑制を鍛えるようになる。

 もし、よい子供を育てたいなら、つねにご褒美を持ち続けること。幸福、将来の大人を創る----気分。そしてゴールに到達する事ができる確かな癖をつける。例えば、私は、子供を育てる時、次のルールに従った。自分が何をしていても(本を書く事を含む)、子供たちの要求があれば、いつも答えるようにする。私はこのルールを作った。なぜなら、もし私がそうしなければ、子供たちに注意を払わないような理由をいつも見つけるようになるだろう。私は、自分が重要だと考える事をしているので、子供が私を呼ぶ時、大切な事をしていない時というのは、起きていない時という事になる。私は次の目的にはっきりと決めた。-----私が愛する感情的に健康な子供を育てること-----そして自己抑制を余儀なくさせる行動のルールを採用した。私は確かに親として間違いもした。しかし、子供たちが呼ぶ時、答えない事は、その間違いの1つではない。

ゴールに達するのに必要な自己抑制を維持するため、最も強く欲求する気持ちをゴールに向けておくこと。これは、心の別の例だ。その時だけの気持ちではない。幸福になるための行動をおこすこと。ある親しい男がかつて、私に打ち明けた。彼の一番下の子供が、まだ小さかった時、彼の妻は、夫が楽しんだ公の名声を楽しみ、十分満たされるために、一連の絵を完成させようと考えた。彼女は従って、他の子供と過ごしたよりも、この娘と多くの時間を過ごさなかった。結果、その時、少女の感情的、知的成長で、明らかな悪化があった。その女性は、自分の感覚より気持ちを当てにしたので、恐らく数年間、集中的な絵を書く事を延期した。自己抑制があったのだろう。彼女は下の娘ともっと多くの時間を過ごした。彼女は、現在、2つの美しい芸術作品をもっている。----よい子供と美しい一連の絵。

自己抑制の開発のため、第一の法則は明確な目的を持つこと。それを達成するのに何が必要かを知ること。そうするのに必要な癖をつけること。決して目的を見失わないことだ。その時だけ面白い他のことをするため様々な誘惑に直面する時も。

人生で最も欲しい事。どうすればそれを達成できるのか。これを書きとめておくことは、十分価値があることかもしれない。例えば:

立派で健やかな子供が欲しい。従って、私は次のようにする。・・・・・

この学位をとりたい。従って、従って、私は次のようにする。・・・・・

楽器を演奏したい。従って、私は次のようにする。・・・・・

素晴らしい結婚生活を送りたい。従って、私は次のようにする。・・・・・

シェイプアップしたい。従って、私は次のようにする。・・・・・

 あなたは「次のように」をしない時、自分の心ではなく、誤りに陥りやすい人の性質に屈服したことになる。どうしても欲しい物を得る唯一の方法は、目的に添っていない一時の快楽を拒否することだ。

 

 

第30章  友人をつくる

 

 

 孤独を防ぐ

現代は、多くの病気を克服してきた。しかし、人類の疫病の中で、悪化しているようにみえるものがある。----孤独。現代の豊かな社会で、人は友人や大家族の数を減らしているようだ。多くの理由がある。個人の自由やチャンスが増えるほど、多くの人は、以前よりはるかに自由に動くようになる。成人した子供たちは、以前より親の世話を期待していない。-------社会にも多くの責任がある。外出しなくても娯楽を見つけられるようになってきている。----テレビや映画を見ること、パソコンの前に座ること、音楽を聴くこと。人々は、多くのクラブに集まらない。教会の聖歌隊で歌わない。または、以前のようにライブパフォーマンス(生の興行・演奏)に行かない。そして、主な都市の中心部で、多くの犯罪が発生している。女性と老人が暗くなってから家を出る時、特に多い。

 要約すると、現代では、人はもっと孤独になってきている。

 もちろん、孤独にも大きな利点がある。1人でいるという事は必ずしも孤独を意味しない。しかし人は社会性の動物だ。私たちは単に交友関係を望んでいるわけではない。生きるためにそれを必要としている。

 深い交友関係は、普通、家族、結婚、友人関係を通して得られる。理想的には、私たちは、これら3つを通して交友関係を経験する。しかし、もし、この3つ全部で深い交友関係をみつけることができなくても、それらのうちのどれか1つで、深く満足できればよい。

 

 

家族

 私たちの最初の深い交友関係は家族の中で見つけられる。もし運がよければ、私たちは親と結びつく(更に運がよければ、両方の親と結びつく)。そして、兄弟と結びつく。また、家族のほかによい関係を見つける機会があるかもしれない。----おば、おじ、祖父、いとこ。

 これらの結びつきのどれも、深い愛かもしれない。しかし、それらは一般的には、結婚や友人関係ほど効果的に孤独を和らげない。なぜなら、ほとんどの家族の関係は、時間の結びつきだからだ。私たちは成人すると、子供と過ごすようになり、親、祖父、おじ、おば、とはあまり過ごさなくなる。実際、成長したときの親子関係の性質は、健康であれば、両親と多くの時間を過ごさない。家族関係は時間が限られている別の理由は----私たちは年をとるに従って、古い親類は死んでいく。

もちろん、これらの理由の両方は、兄弟にも当てはまる。そして多くの人は兄弟とよい関係を続ける。しかし、これは法則ではない。カインがアーベルを殺して(聖書の逸話)以来、兄弟の関係は、親密というわけではない。-----彼らがお互い愛していても。

もし、良い家族関係で人生をスタートしたとすると、幸福のチャンスは、無限に増加する。その結びつきの重要性を述べる事は、ほとんど不可能だ。しかし、普通、年をとって、家族以外の関係は、より親密になるチャンスがある。なぜなら、そちらは時間の結びつきではないからだ。そして、それらは他とは比較できない関係だ。

 

 結婚

 良い時、人が経験できる交友関係で、結婚は最も深遠だ。

 第1に3つの交友関係を全て含んでいるのは結婚だけだ。----妻は家族で、親友で、ずっと続く関係だ。子供の死は、失うことの中で最も苦痛な一方、配偶者の死は最も混乱する。

 第2に、他の家族関係や友人関係と違い、結婚はそれだけで、独自の強力な結合である、性の要素を含んでいる。

 第3に、他の家族の関係と違い、不平等(親子、兄弟)ではない。良い結婚は対等の関係だ。

 第4に、家族と友人の両方と違い、私たちは妻、または夫と事実上、毎日一緒にいる。そして、「時間の質」の概念は、とはいえ、時間の量は質だ。一つは強力に結合している効果を持っている。女性は男性より直感的に、次のことをよく知っている。一般的に、配偶者をより必要としているのはどちらかということを。

 人間関係に対する深い必要を満足させるこの独特の力のため、そして人間関係の全ての形を持っている独自性のため、人生で、良い結婚ほど良いものはほとんどない。そして人生で悪い結婚ほど悪いものもほとんどない。なぜなら、配偶者の選択は人生で最も大切な2つの選択の1つだ(もう一つは子供を持つかどうか)。そして出来るだけ賢明にされるべきだ。

 

 

 友人

 友人は人生で特別の位置を占める。私たちは家族を選ぶ事はできない。-----良くても悪くても家族に縛り付けられている。しかし友人を選ぶ事はできる。友人とは、人生を通じて私たちに伴う人々だ。彼らは、このほろ苦い旅で選ばれた仲間なのだ。

 私は子供時代から仲の良い友人に恵まれていたので、成人して、多くの人が仲の良い友人を持っていないことを知って、驚いた。ほとんどの人は、決まった食事、おしゃべりをともにする友人を持っているが、親密な友人がいない。

 親密な友人とは、愛していて、信頼して、打ち明ける事が出来る人のことだ(そう。家族のメンバーはそのような友人になれる)。

 このように定義する時、なぜ友人がそれだけ大切なのか、なぜ彼らは沢山いないのかが理解できる。

 友人関係がいかに重要か、そしていかに多くの人が親しい友人をもっていないかを理解すると、より幸福な人生には親しい友人を見つけることが必要となる。しかし友人を見つける事を第一に優先する成人は、ほとんどいない。これは間違いだ。しかし、簡単に修正出来る。さしあたり、友人を、持つことが如何に大切かを明らかにすることだ。そうすれば、友人を作ろうとし始める事になる。

 

 

友人を見つける

 もしあなたの人生に友人を加えたいなら、友人を見つけにいく必要がある。多くの点で配偶者を見つけようとするのと同じだ。私たちは一度結婚したいと決めたら、相棒を探し始める。イベントに出かけ、最もやさしい人に出会うチャンスを最大にしようとする。そしてデートをはじめる。友人を見つけるのも同じようにするだろう。友人の性は普通、自分と同じはずだ(下記参照)。

 ほとんどの人は、このようにしない。彼らは配偶者を見つけるのと同じくらい友人を見つけるのを重要だとは考えない。友人は「みつかるもの」と考えている。従って、特別の努力を要しない。このような態度は間違っている。

 第1に、ほとんどの人にとって、友人は幸福にとって、大切だ。(私は「ほとんどの人にとって」と言う。なぜなら、私が知っている一部の人、ほとんど私の親の世代だが、彼らは配偶者を通して、必要な友人関係の全てを持っているといえる)。2番目に友人関係は結婚ほど「みつかるもの」ではない。彼らは普通、見つけて育てなければならない。

 

 

はじめに、友人の値打ちを知る

 友人をみつける方法の一つは、グループの中で活動的になることだ。グループの中で価値を分かち合う人の比率は高いようだ。しかし、その価値は、十分ではない。友人関係は価値を分かち合うことなしでは不可能だ。結果、人々が傷つけられる理由の一つは、次の通りだと考えられている。彼らが価値のある人かどうかに注意を払わないで、親しくなり、友人となる事があまりに多すぎる。

 これは、ドラマのように私のラジオトークショーに持ち込まれた。ある21歳の女性が彼女の友人について語った。彼女が友人だと思っていた男に、別の友人が強姦され、殺された。彼女は友人の死体を発見してトラウマ(精神的外傷)に苦しんでいた。私はこの女性に尋ねた。回想してみて、その男の行いにショックを受けたかどうか? すごくショックでした。彼女は答えた。その結果、男性とデートしなくなったと。信頼する男性がそのようなことをして、どうして信頼できる男性をみつけられるか?

 そのような恐ろしい男が実際にいると分かった後、私は、彼女の質問に答えようとした。私は彼女に話した。友人の振る舞いによって大変稀なショックを受けたから、私は幸運だったと。何故か? 私は友人の値打ちを知っている。私は彼女に尋ねた「あなたは殺人を犯した友人の値打ちをわかっていましたか?」。

 「どういう意味ですか?」彼女は答えた。

彼女は私が何を言っているのか分からなかった。

 単純な法則がある。それは、誰を信頼するかを判断することに大きな価値があるというだ。 「ウマがあう」または、単に面白いというだけで、友人を選んではいけない。彼らを信頼する前に、彼らの性格を知ること。(例えば、彼らの値打ち、そして価値ある行動をしているかどうか)。彼女は、男の値打ちについて考えずに人を信頼していたのだ。

 多くの人は、友人が値打ちのある人かどうかを考えない。これが、度々友人に失望させられたり傷つけられたりする理由だ。もし、友人を選ぶ時、性格と値打ちを無視すれば、あなたは、大きく失望するかもしれない。

 友人を賢く選んだかどうかをテストする方法のひとつは、次のように尋ねることだ。何故、彼らが友人なのか。彼らを気に入っていて、一緒にいて愉快だ、というだけなら、恐らく値打ちを考えていなかったことになる(それも交友関係の大切な要素だが)。または、このように試してみよう。あなたの友人に会った事がない人々に、彼らが良い人だと証明できるかどうか。

 

 

 人の値打ちを確かめる手引き

 友人を選ぶ時、性格を確かめる事が大変大切だとしたら、どのようにして確かめるのか? 立派な人かどうかどのようにして決めるのか? 

 そのための簡単な方法はない。もしあれば、現代の知的な機関は決して盲目ではないことになる。使用人は、決して従業員に騙されない事になる。警察力は要らなくなる。しかし、次の3つのガイドラインが助けになる。: 

 

1 あなた自身が価値ある人であるべきだ。そして、その値打ちを鑑定して、はっきり意見が言えるようにすべきだ。自分自身を知らなければ、値打ちの分類方法を見届けられない。次の例は、善と幸福が関連する例だ。善良な人は自分の人生に善良な人を連れてくる。自分の生活に入ってきた善良な人は幸福をもたらす。自分の人生に入ってきた人々は、自分自身の鏡のようだ。----そして全ての鏡のように、私たちが見るものは、私たちを不安にするかもしれない。もしあなたが、繰り返し、道徳上芳しくない人たちを自分の人生に連れてくるとしたら、あなた自身の性格に何かが欠けているか、感情的に問題のある生活によって、善良な性格が反抗しているかのどちらかだ。

 

 

2 自分の値打ちが明らかになれば、あなたが友人として考えている人の値打ちを確かめよう。個人的な事と一般的な事の両方で「重い」課題について、友人と語ろう。ほとんどいつも、これらの話題によって、彼らの関心、価値、性格について何かが明らかになる。あなたは、次の事が分かるかもしれない。彼らが優しい心を持っているか、冷たい心を持っているか。分相応の生活をしているか。自分の人生を愛しているか。偏屈者かどうか。その他。

 

3 これらの人々が、他人をどのようにもてなすかに大きな注意を払うこと。特に彼らと利害関係のない人をどのようにもてなすか。彼らがあなたをもてなすようにしているか。見てみよう。例えば、あなたの見込んだ友人がウエイターやウエイトレスをどのようにもてなすか。彼らは、ウエイターをあちこちで注文を受ける下級者としてもてなすか、礼儀正しく寛大にもてなすか?

 

 

 上司や友人より、従業員や守衛は、その人の性格について、もっと多く話すことができることがある。ウエイトレスは時々、長年の知り合いより短時間で人の性格を知る。人は、他人から何かが欲しい時、いつも、他人を上品にもてなす。----例えば、交友関係、セックス、金、結婚。あなたに良くもてなす人は、従って、人の性格について何も見ていない。そして、後に違った状況の時に、あなたをどのようにもてなしたいかは、現さない。

 なぜ親密な友人は同性に決まっているのか?

 ここまで私たちは、友人として善良な性格(パトロンではなくて)の人を探すことに限定してきた。また、暗に同性の人を探すことに限定していた。もちろん、ホモセクシャルでない人が、親密な異性の友人を持つことはできる。しかし、同性の友人を探す事が最良だ。異性の誰かとの親密な友人関係は、続きにくい。

 理由の一つは、あなたたちはお互い、多分、最終的には誰か他の人と結婚するだろう。そしてあなたが結婚した人は、異性の最も親密な友人になるだろう。異性の友人との交友関係の強さは従って大きく減少する。あなたの配偶者は、異性の誰かとの親密な関係の前進にほとんど耐えられない。性的な魅力がなくて、性的関係なしでも。親密な関係に性的な関係なしというのはない。そしてあなたの配偶者は、あなたが異性の本当に親密な友人になることを期待して当然だ。

 他人との愛撫の全ての形は結婚の恐れがある。女性に聞いてみよう。彼女の夫が度々、性的な接触なしで、他の女性と親しく会話する時、どのように感じるか。そして男性に聞いてみよう。もし妻がいつも他の男と2人で夕食をとるとしたら、どう感じるか。彼らに性的な接触がないとして。

 一方、この問題のなかで、同性の友人に影響するものは一つもない。なぜなら、結婚しても彼らは簡単に友人として残る事が出来る。結婚後、男性側に親密な男の友人がいたとして、それが問題だと思う妻はほとんどいない。多くはそれが好ましいと思う。同様に女性についても結婚後、親しい女性の友人が残るというのは当てはまる。

 2番目に同性の友人を探す理由はわずかな例外があるが、男性は、男性についてのほうが良くわかる。女性は、女性についてのほうが良く理解できる。性的な緊張がないため、私たちのほとんどは自分と同性のメンバーと一緒にいるときのほうが打解けて自由に感じる。そして理解して打解けることは、交友関係が何についてかだ。(これは、ついでに言えば、結婚の大きな挑戦の一つだ-------あなたの夫か妻を、異性であっても、あなたの最良の友人で、あなたが最も信頼する人の一人にすること)。

プラトニックな交友関係と呼ばれることの3番目の問題は、多くの時間、交友関係は友人の一人だけにプラトニックであることだ。普通、男女の交友関係では、2人の友人の一人がプラトニック以上の関係を欲しがる。私は交友関係について、次の事を繰り返し述べてきた。相方が自分に対してロマンチックまたは性的な要求を抱いていた事を知ってショックを受けた。-----時には数年にもわたって。

 その上、男女のプラトニックな交友関係として始った事は、簡単に一方、または両方により、より大きな欲求になり易い。無数の結婚は非性的、非ロマンチックな交友関係からスタートしている。これは稀ではない。もし男女が友人のように信頼しあって、友人のように愛し合っているとすると、エロチックな魅力が増えても全く驚くことではない。

 

 

 友人を保ち続ける

 彼らの欠点を許す

 多分、友人を保ち続ける最も重要な法則はこれだ。もし彼らが立派な人で、よい友人であったなら、彼らの欠点を許すことだ。あなたの友人は皆、欠点がある。全ての人に欠点があるからだ。欠点のない友人(例 決して不平を言わず、いつも親愛で、不機嫌ではなく、決して私たちを困らせず、決して失望させない)は、ペットとして知られている。従って、友人の欠点に我慢できない人は友人なしでいるか、最も親愛な友人として動物と一生を過ごすかだ。

 これは、友人があなたをどのように持て成しても、常に許さなければならないという事ではない。また、全ての交友関係が維持されるべきだということでもない。交友関係を止めるべき時もある。しかし、親密な交友関係を止める事は、離婚の苦痛に近い。そして注意深く考えた後でのみ、そうすべきだ。

 痛みが交友関係の終わりを意味するのはいつか? 2つの判断がされた後、説明しよう。

 

     友人の記録

人生において、私たちには、道徳銀行の計算書がある。生きている間、礼儀正しさと正直の行動は、貯金だ。礼儀正しくなく、正直でない行動は、貯金を引き出すことだ。その計算書の残高の大半は、当然利益となるだろう。その利益については、疑問があるかもしれない。実際、貯金が引き出された時、その利益は、許しを受けるに値する(例:間違った事をしたとき)。不運にも人の多くの悲惨な特徴で、他人の道徳の計算書を正確に評価することは気が進まないことだ。私たちは貯金が引き出された事は、良く覚えている(人々が行った悪いこと、特に自分たちへの)。しかし、貯金された事は、それほど覚えていない(人々が行った良いこと、自分たちへの良い事でさえ)。そして、友人に対してこのような事をしていると、結局、彼らの全てを失うだろう。

 

     友人の動機

苦痛を伴う行動が交友関係を終わらせるかどうかを評価する時、もうひとつのガイドラインは動機を判断することだ。特に悪意があったか? 一般に、私は信じている。人間関係を取り扱う時(どのようなタイプでも)、もし人が卑劣であれば、ある人は、関係を終わらせようとするだろう。悪意のある行いに耐える理由はない。もし、友人が私たちに悪意を持っていたとしても、私たちに敵はいらない。一方、もし私たちが友人を保持し続けるのであれば、悪意のない行いは全て、耐えるべきだ。------ろうばい、苦痛、怒りによる苦痛を与える行動のような------しかし卑劣なことや、一般に礼儀正しさに欠けるときはそうではない。そのようなケースで友人関係は維持すべきだ。友人はまっすぐには成長しない。*

 

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 *動機についてのこの考えは親友の動機についてのみ適用される。他の人(例:世の中のほとんどの人)については、動機は重要ではない。もし私が溺れかけている時、個人的に私を心配しないライフガードが私を助けるのかどうか、または、愛他精神のない通行人のような行動をするか、私を知っていて心配する人かどうかは、考えない。このエッセーを見て欲しい「動機を判断するな」2回の思考より。

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友人のせいにするな

あなたの気に入らない事を友人がする時、苦痛を伴うことであっても(しかし、卑劣ではない)、彼らのせいにしてはいけない。必要であれば(そして必要でないかもしれない、なぜなら誰にでも人を怒らせる部分がある)、自分が傷ついたと言って働きかければ良い。

 個人の例:私は素敵な会話は好きだ。特に友人と話すのは好きだ。しかし、電話で話すのは好きではない。友人の中には電話で話すのが好きな人がいる。彼らの信用のため、私の電話の好きな友人は、私が彼らにほとんど電話しないことについては、別に悪く思っていない。彼らは、私が彼らをどのくらい愛しているか、私が電話をどのくらい嫌っているかを知っている。そして彼らは、これを補填する私の他の特質を見つけたのだと思う。

 

 

 カップルはカップルを必要とする

 人々は独身の時、本能的に友人を求める事が如何に大切かがわかっている。友人無しでは、独身者は、いつも実際に、孤独になる。結婚する時、一方、彼らはほとんど本能的に反対の事を考える。-----交友関係に対する彼らの必要は、結婚に出会った。多くのカップルは認めていないが、カップルにとって友人をもつことはとても大切だ。

 すでに述べたように、私たちの配偶者は最も親密な友人であるべきだ。しかし、このケースの場合でも、結婚したカップルは、カップルとして、友人を持つことから大きな利益を得る事が出来る。特に他のカップルから。他のカップルと夫婦間の、そして家族の問題を議論することは、結婚生活に大きな助けになる。しかし、こうするカップルは少ない。仲良くしているカップルが別れた時、なぜ、周りの人が驚くかという理由だ。これらのカップルは、夫婦間の問題についてオープンに話していたら、他のカップルは、少なくとも、問題のある間、そのパートナーを慰めることが出来ただろう。最良の場合、カップルの結婚を維持させる手助けになれただろう。ほとんどの夫婦間の不協和音は、他のカップルにとって珍しいものではない。全くどこにでもあるようなものだ(なぜなら、それらの多くは男女の差から由来するものだから)。従って、他のカップルと問題を議論することによって、夫婦間の不協和音の多くは減少する。そして如何に多くの夫婦間の問題が2つのカップルに共通しているかが分かる。

 人々がその問題が他のカップルと分かち合える時、如何に多くのストレスが減少できるかは計り知れない。ある日、私は、下の息子をどういうふうに怒鳴りつけてやろうか考えていた。この時、如何に困っているか友人の ロバート フロークザック に聞かれてしまった。彼は隣の部屋にいて、立ち聞きしていたのだ。神よ。私は思った。息子は父として私をどういうふうに考えるだろうか? 私がちょうどこの事を考えていると、彼は部屋に入ってきて、言った。   

「君がやろうとしていることについて、僕がどう考えているか、君は知らないだろう。」

 「どういう事だい?」私は聞いた。

 「僕は時々息子を怒鳴っているよ。だけど、君はそうしてなかったじゃないか? 神よ。御心を分かちたまえ。」

 そして、もちろん、私は彼が本当に優しい心で、時々、息子を怒鳴っていることが分かった。

 友に感謝。

 

 

第31章  精神療法と宗教

 

 

 精神療法

 生まれてしばらくすると、私たちは、人生で望むものを全ては与えてもらえなくなる-。必要なものも与えられないこともよくある。人生は素晴らしい時でさえ、難しい。多くの人にとっては、素晴らしいものではなく、単に難しいだけだ。

 誰もが感情的に傷つく。親はどのようにしても私たちを傷つけてしまうだろう。それは、ほとんど避けられない。もし私たちが親に傷つけられないとしたら、次のことから、傷つくかもしれない。親か兄弟の死か病気、ほろ苦い結婚、離婚、直接の家族が牧歌的になりすぎること、私たちを愚弄する同僚、虐待する大人。びくびくしない少年時代は可能だが、非常に稀だ。

 子供時代や青年期に成長すると、それ以外の事で傷つく。多分、友人か親戚の死、または事故。それらは私たちを傷つける。または、初恋によって傷つくか、大切な競争に負ける。子供時代で、無傷の青年期を経験する人はほとんどいない。

 このような理由から、異端者になるべきではない。人だけが唯一精神療法から利益を受ける。精神療法の助けを否定する事は、次のような感情的、精神的な問題を否定することだ。もっと健全で、好ましく、仲の良い大切な人間関係、または、精神療法の持つメリット。感情的、精神的問題、または、大切な人間関係の改善を否定する事は自己否定につながる。精神療法にメリットがあることを否定するとしたら、どのように、精神療法なしで、精神的な傷を治療するのか? 体の傷に外科的な療法が必要なのに、精神的な傷に精神療法が必要ではないのか? 精神療法は、それだけでは個人的な問題を全て取り扱うことが出来ない。しかし、次の事も一人ではできない。-----愛すること、宗教、意義のある仕事。絶望にたいする解毒剤を3つ引用する。これらは全て必要だ。

 幸福に結婚したカップルでさえ、夫婦間の治療のために時間をかけるべきだ。治療は壊れた部分を治療する必要性よりは、むしろ、何も壊れていない事を確認する装置としてみるべきだ。ちょうど車を定期点検にだすのと同じだ。それらは壊れたから出すのではない。壊れてなくてもそうする。同様に結婚も、良いコンディションかどうか確かめるため定期点検が必要だ。

 

 

 精神療法の限界

 

 精神療法は大切だが、それは幸福への道として3つの限界がある。

 

 ほとんどの精神療法師はあまりよくない

 私が言う精神治療師は、そのほとんどが特に有能というわけではない。精神治療師を中傷するわけではない。なぜなら、これは、どの職業においても言えることだからだ。単に3つの事実を示す。

 第一に精神療法は科学であると同時に芸術だ。本当に良い精神治療師は精神の知識だけでなく、人々に対処する知恵と生まれつきの能力が必要だ。-----何に対しても希な2つの品質。従って、良い精神治療師になるのには、良い外科医になるより更に才能がいる。外科医は知識と手先の器用さが必要だが、人々、知識、常識に対して、さまざまな対処方法があるわけではない。

 2番目に、十分な科目を満たす人のほとんどは治療師の免許を得る事が出来る。精神治療師になるは、知識、常識、分別よりも忍耐が要る。

 3番目に、多くの精神治療師は、治療を必要とする問題のある人として、その職についてはいない。これは、患者が広範囲にわたる治療を受け、それによって助けられ、彼らへの洞察力が働いている時、長所になる。しかし、彼らが効果的な治療を受けていない時、そして彼ら自身の問題が治療にとして判断をかき乱している時、短所になる。

 どのように精神治療師を選ぶかは従って、緊急の問題ではない。-------特に間違った治療が実際にあなたを傷つけるためだ。一般的なガイドラインを一つ示す。:もしあなたが挑戦せずに痛みがないのなら、その治療士を用心したほうが良い。問題の起源を本当に打ち明けることは、時々、本当の苦痛と自問を含むに違いない。もし単に気持ちがよくなるか、または、快適になるだけだったら、別の治療師を探す時かもしれない。あなたは自分の問題に正直に直面することによって、儲かりにくい金と過ごすだろう。単に「あなたの痛みは分かった。かわいそうに」というのを聞くためではない。

 

 

 精神療法は、精神障害だけを対処する

精神療法は、それだけでは私たちを幸福にしない。なぜなら、それは、幸福への精神的障害だけを取り扱っているからだ。その障害が私たちをもはや幸福に出来ないくらい大きいことがある。ちょうど、足の骨折がなおっても陸上の一流選手にはならないように。精神療法は、もし、完全に成功しても、幸福への精神的な障害を取り除いただけに過ぎない。これは大きな成果だが、幸福へは他にも多くの障害がある。この本で説明しているように。

 精神療法は大切だが、多くの人はそれに多くの事を期待しすぎている。それは、それだけでは、あなたを幸福にはできない。問題を取り除くことさえできない。あなたの治療師と治療ではなく、あなただけが、あなたを幸福に出来るのだ。-----そして、それは、かなり良い治療になる。

 

 

 心理学には意義がない

精神療法だけでは私たちは幸福になれない。なぜなら、それには人生の意義がないからだ----そして幸福は意義なしでは不可能だ。幸福になるため意義と目的は大変重要だ。そして、それを見つけることは、幸福にとって、健康な精神よりさらに大切なことでさえある。私は精神的に問題のある人に会ってきたが、彼らは幸福の尺度をもっていない----人生の意義における強い信念に感謝すること。一方、私は、目的と意義をもたない幸福な人を想像できない。どんな素晴らしい精神療法を彼、または、彼女がやっているかは関係ない。

 多くの宗教の信者が自分自身に次のように言い聞かせている大きな理由だ。心理学は大切ではなく、宗教が幸福にとって必要な唯一で全てのものだ。宗教は人々に意義と目的を与えている。そしてそれにより人々に幸福を与え、彼らは信じる。なぜ、彼らは心理学を邪魔者扱いするのか? 彼らは間違っている。

 

 

 宗教

 

 なぜ、宗教は十分ではないのか

 宗教だけでも十分ではない。

 宗教は最良のとき、最良の心理学より、信者に幸福と慰めをもたらす事が出来る。しかし宗教は、私たちが幸福と自己認識になる必要こと全てを与える事が出来るわけではない。精神的な傷に苦しむ人々は確かに宗教に多少の平安と幸福を得る事が出来る。しかし、痛みの根本となる精神的な元に対処することなしで、可能な範囲の幸福を宗教から得る事はできない。

 さらに重要な事は、彼らは、精神的な傷を隠すのに宗教を利用しようとする。そして、精神的な傷に向き合おうとしない。宗教がこのように使用されるとき、------精神的な問題を隠すこと----------それは実際に精神的に、道徳的に、宗教がない時より、悪くなる事がある。宗教がこのように使用される時、人々の精神的問題を解決するかわりに、それらは問題を解決しないと考え違いを起こすようになる。従って、問題は彼らの傷をそのままにしたまま、周りに人は快調だと思う。道徳水準で、傷は、更に大きくなることさえある。宗教は精神的に傷を負った人々に精神的な問題とそれによって傷つく他のことをいうための法外に強力な武器を与えることがある。精神的に傷を負った人による宗教の悲惨な使用は、-----家族生活と全社会生活において---------宗教の歴史の暗い面だ。

 他にも関連して、宗教は十分でない理由がある。幸福な人は、動物を満足させるのと対照的に、自己認識だ。精神的に傷ついた人が宗教を通して得た幸福は、吟味されていない人生の浅薄な幸福であることがよくある。これは、なぜ、単純で非哲学的な人が信者にいるのかという理由だ。----彼らは、宗教が与える事ができる大きな慰めのため、現実(例:自分自身を知ること)にいることから、宗教にいることへ対処した。これは宗教的には、非印象的で、むしろ、精神的なものだ。私たちは、動物の満足を得るために創造されたわけではない。私たちは、限りなく多く知ることができる-------自分自身について、人生について--------そして知識によって、幸福になる。

 私たちが自分自身を知る事に対する盾として宗教を利用する時、それは間違った利用の仕方だ。それは、宗教をゆがませるだけに終わることがある。熱狂的な信者は、不幸な人だ。彼らは問題のある精神に対して、そして、それによって、宗教に力を注ぐ。逆に、信者の最も良い人は、また、最も精神的に健全だ。-----なぜなら、彼らは宗教に大きな真実を見つける事が出来る。そして、それを自分自身と世の中に最も健全に適用する。

 

 

 何故宗教は必要なのか

 十分ではないが、しかし宗教は幸福には必要だ。宗教を持たない読者の中には、この意見に反対する方もいるだろう。彼らは次のように言うだろう。有神論者の中に幸福な人がいるように、(神についての)不可知論者と無神論者の中にも幸福な人は大勢いると。

 恐らくそうだろう。そして、歴史上、熱烈な反宗教的考えの人の中にも、そう考えている人がいる。結局、最も有力な反宗教主張は、良く知られているマルクスとエンゲルスの、宗教は「集団の鎮静剤」というものだ。反宗教的な活動家でさえ、宗教が持つ慰めと幸福の力を認めている。宗教は詐欺だ、と彼らは言うかもしれない。しかし、宗教は人々を幸福にしない、とは言えない。  

 宗教を持たない人が、宗教を持つ人と同じくらい幸福だと思う別の理由がある。そのように考える人が多くなればなるほど、彼らは次の事を認めるようになる。宇宙に宗教的意義が存在しないとしたら、どのようなタイプの意義も存在しない。最終的に全てが的外れ(無意味)だと考えて、本当に幸福になれる、と思っている人はいない。アニー ホールで、7歳のウッディー アレンは、次のように嘆いた。宇宙は、「膨張して、いつか、粉々に破裂する。その時、全てが終わるんだ」。彼は、人生は従って無意味だ、と思った。彼の両親は、彼は変人だと思っていた。そうではないのだ。宇宙に意味を与える事以外に、宗教は、個人の日常に超自然的を吹き込む。そして扶養する地域社会に人生の最良な時間と最悪の時間を与える。感謝を教え、親と子の絆を強め、未来のため、個人と過去と希望をつなぐ。個人が神聖さを得る機会を与える。自己抑制を教え、意味ある神聖な日々を与える。単に日々を送るだけではない----それらの全ては、幸福には不可欠だ。

 自分を知る事と、超自然を経験することは、極めて大切なので、私は長く次のように主張してきた。全ての聖職者は精神療法師を診ている。そして、全ての精神療法師は、普通、礼拝に行く。精神の聖職者と、魂の聖職者は互いを必要としている。そしてそれ以外の人は、彼らの療法を必要としている。

 

エピローグ  情熱的な中庸

 

 

「幸福は大切な問題だ」は「情熱的な中庸の実例」というサブタイトルをつける事が出来る。この本を通して、常に繰り返してきた一つのテーマは、幸福は中庸を通して達成されるということだ。

 多くの人は、中庸を退屈な事だと思う。そして、確かにその通りであることもある。しかし、大多数の人にとって、中庸は幸福にとって不可欠だ。中庸には、情熱、刺激、面白い事も含まれる。本当に、情熱、刺激、面白い事のない生活は、中庸な生活ではない。それは苦行だ。

全ての大思想は、宗教的でも非宗教的でも、東洋でも西洋でも、次の事を強調している。幸福でよい人生は全ての事について中庸だ。

この本の初めと同じように締めくくる。幸福の目的は、高尚な人の努力だ。それ以外にはない。それは、バッハのソナタを演奏するのと同じくらい熟練を要する芸術だ。それは高い山に登るのと同じくらいの成功だ。心の一定の使用と一定の自己訓練だ。その達成への道のりは賢さを授与し、感謝を教え込む。そして、その道徳的な分派を与えると、幸福はもはや、絶対的というより、私たちが言う民主的というものだ。

 その時、ほとんどの人にとって、幸福は、本当に大切な問題だというのは、疑いの余地がない。私の本が読者諸氏の問題を小さくする事を期待する。