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幸福への大きな障害と、それに対する方法 第6章 人の性質 人の性質は、満足しない 以前、たまたま見つけた新聞広告によって、幸福の問題が具体化した。その広告は、ロサンゼルスのセックスセラピー病院のものだった。読んでみると、「もし性生活に完全に満足していないなら、お電話ください」と。はじめ、広告の意味がわからなかった。しかし、それについて私は考えないではいられなくなった。そして、考え、本当にキラリと光る広告がわかった。もしロサンゼルスで性生活に完全に満足していない人が病院にコンタクトを取るとしたら、みんなが病院にコンタクトを取ることになる。 なぜか? 広告は魔法の言葉「完全に満足」を使っている。何かに完全に満足している人はいるだろうか? これについて説明するため、次の広告を考えてみてほしい。 「今の収入に完全に満足でないなら、お電話ください」 「配偶者に完全に満足でないなら、お電話ください」 「子供に完全に満足でないなら、お電話ください」 「親に完全に満足でないなら、お電話ください」 「歯磨き粉に完全に満足でないなら、お電話ください」 私たちが完全に満足しているものは、何もない。 理由は人の性質だ。満足しない―――理由は、幸福への障害の中で、人の性質より大きいものはないからだ。どんなに私たちの天性が望んでいても、――愛、セックス、金、注意、喜び、食べ物、安心――を完全に満足するのに十分な量が提供されるはずはない。 子供が最初に話す言葉に注意してみて欲しい。多分それは、私の一番下の子と同じだろう。それは「ママ」だ。次は「パパ」で、3番目は「もっと」だった。私たちの強力な衝動を赤ちゃんの言葉は正確に表している。最初に愛、安全、そして次に「もっと」。これが全てだ! 人の性質は幸福に対する障害としては、最大で唯一のものだ。そして幸福について書いたり話したりされることは、あまりにも少なかった。最初にわかることは、多くの人はあまりに悲観的すぎる。2番目に、幸福の最大の障害を自分の性質とすることは次のことを意味している。つまり、幸福になるためには、自分自身と闘わねばならない。そして、これは多くの人が聞きたくないことだ。3番目に、それによって不幸を外からの圧力のせいにしたいという欲望が少なくなる。 私たちが困難と闘いたいと思っても思わなくても、幸福の最大の障害は、人の性質だ。そして、それが何故この本が戦いに多くの注意を向けているかという理由だ。より幸福な人生を達成するためには、自分自身と闘わねばならない。 満足しない性質に対処する方法 幸福を決めるのは、人の性質ではなく、頭脳に違いない。 人の性質は満足しない。合理的で賢い頭脳は、幸福になれるかどうかを決める仲裁人であって、性質でないに違いない。結果、私たちは、自分の性質に語りかけなければならない。たとえ、自分が聞いて、反応していても、満足かどうかをきめるのは、恐らく自分の性質ではなくて、心だ。 第1に、自分で所有している物にたいして、あなたは満足だろうか? 自分の分け前だけで満足できる貧しい人は、そうでない金持ちよりも幸福だろう。 2番目に、もし自分で所有している物に満足でない場合、この不満によって、不幸になるだろうか? 不幸は不満からくるとは限らない。ある人々は単純に満足を選ばないかもしれない。―――そして必ずしも不幸にはなっていない。ちょうど、私たちが普通、不満かどうかを選択できるように、不満が不幸になるかどうか決めることがある。 次の考えがよりいいのか、もっと慎重な言い方があるのかは、わからない。―――お話しした方がいいだろう。あなたが満足するか、もっとよくなるか、少なくとも、見事な言い方だ。 自分の不満を知ることで、不幸になっていないだろうか? 私は普通、次の言い方のほうが好きだ。私たちは自分に言い聞かせることができる。「私はそれに満足しなくても幸福になれる。」これによって、次の2つが可能になる。 1.幸福を破壊させないという気持ちを忘れない。 2.不満を減らすために努力する。 不満の分類 不満はどこにでもあるという事に対して、別の方法がある。 不満を2つに分類することだ。―――必要なものと、不必要なものに。 必要な不満の例は、創造的な人が持っている、仕事の不満だ。これは必要だ。何故かというと、不満によって、創造的な人は仕事を改善しようとする。そのような不満は不幸に至らない。生活を善くする必要はある。 個人的な範囲で必要な不満の例を出すと、私の妻は、夫婦間のコミュニケーションのレベルに度々、不満を感じている。彼女によると、私たちは、だいたい何時も自分の感情についてもっとオープンで正直になって、一緒にいる時間を増やしたいと。彼女は結婚生活では幸福だ。しかしコミュニケーションのレベルに対する彼女の不満によって、もっと親密になっている。そして、結婚生活はもっと良くなっている。(コミュニケーションのレベルにだいたい満足していた彼女の夫でさえ、このことがわかる) 不必要な不満は、次のどちらかだ。重要でないか、重要であっても変えることができないか。重要でない不満の例を用いると、私はいつも、ステレオの品質にはあまり満足していない。そして例え実際にそれが、どんなに良くても、たいしたことはない。それはわかっている。しかし、例え悪いステレオを持っているにしても、低品質のステレオが幸福を減らすと思えるほど、私はバカじゃない。(一方で、すごいステレオによって幸福は増える。何故なら、私はいつも、できる限り幸福を増やそうとするからだ)。あなたを不幸にしない不満への鍵は、不満が重要(例えば、夫婦間の親密度)か、そうでないかを知ることだ。一度そうすれば、あなたは重要でない事に対する不満を維持しならが、それに対して笑えるようにすらなれる。―――もっと良いステレオを探すことは、私にとって、楽しくて仕方がない。 不必要な不満の2つ目は変えることができない事に対するものだ。―――変えることができない事が重要だとしても。それには大きな力がいる。変えることができない不満は、結局、不必要だということを認識できる賢さがいる。あなたの不満は完全に正当なものかもしれない。しかし、その問題を変えることができなければ、不幸を増やしただけになってしまう。良く知られた12の段階で祈ることは最善をつかむ「神は私が次のことを平和に受け入れることを認める。変えることができないこと。自分でできることを変える勇気、違いを知る賢さ」。 あなたは自分で変えることができないことを平和的に受け入れる時、不満が本当は必要でないということを見分けるだろう。 何故、私たちは、満足しない性質を持っているのか? もし、完全に、人の性質が強欲で、幸福に対する最大の障害だとしたら、何故この性質は創られたのか? それは、自然、または、神がむしろ悪意のある罠を私たちにしかけたかのようだ。 私たちに罠を仕掛けたのでなかった場合、実際に神は、人の性質は満足できないようにしたということになる。もし人の性質が十分満足されるものであったなら、この世界でも、個人でも、何も成し遂げる動機がなかっただろう。病気に対する不満によって、治療できるようになった。がまんに対する不満によって革命が起こった。昔の芸術的表現に対する不満は、芸術の素晴らしい作品が生まれる動機になった。そして、もちろん社会の道徳状態に対する不満から、道徳の改善があった。奴隷制度の廃止から、民主主義が生まれた。個人的なことでは、人の不満は、多分、次のような改善を促す。感情的な結びつきがよくなる。個人の道徳がよくなる。健康がよくなる。 実際、良くなる物は何でも昔の不満の結果なのだ。 不満を与えてくれた神に感謝! それは優れたことで、人の貴い特徴だ。動物が不満を持っていると思えるような証拠はない。動物にエサ、住まい、安全をやってみなさい。彼らは満足してしまうだろう。 人の場合はどうだろう。次の瞬間に、もっと欲しがる。そして満足しなくなる。人は完全に満足することができない。 モダンダンスの大家マルタ グラハム。彼女は最もよい必要な不満を次のように表現している。「満足している芸術家はいない。いつも満足することはない。奇妙で非凡な不満があるだけだ。神から恵まれた不安により、私たちは前進し、もっと元気になる。」 不満を持とう。それによって、不幸になることはない。 第7章 自分と他人との比較 私たちは、どうやって自分が幸福かどうかを知るのだろう? この質問に答えるのは簡単に見える。―――私たちが幸福だと感じるときは幸福だ。しかし一人で幸福のレベルを決めたとしたら、次のようになる。私たちは1時に幸福だった。2時半は幸福ではなかった。3時半、また幸福になった。日中を通してだいたいそういう感じになる。 しかし、一人の感覚では、自分が幸福かどうかを決めることができない。それを決めるのは何か? 答えは、他人と自分を比較することだ。―――これは、大多数の人と自分を比較する分には、問題ない。しかし彼らはそうはしない。ほとんどの人は非常にまれな人――自分より幸福と思える人――と比較してしまう。 例えば、自分の収入を自分より収入の低い人と比較するだろうか? 私は次のことを読んだことがある。映画俳優が全ての作品で100万ドル稼いでいだとしても、ハッピーにはならない。なぜかというと、アーノルド シュワルツネッガーは数100万ドル稼ぐからだ。この俳優がもし自分のサラリーを高校時代のクラスメートと比較していたら、彼は、すごい幸運に頭がおかしくなるくらいハッピーになれただろう。しかし、そうはしないで、彼は自分より収入が多い、世界でほとんどいない俳優と比較してしまった。 フォーブス誌がアメリカの400人の富豪をリストアップするとき、私の貴くない部分は毎年毎年、邪悪な喜びに満たされる。富豪はその年を通して印象に残り、人々は暮らしているのではないかと思う。全世界では、結果は次のようになる―――その数はわずかに268人! 私が思うに、フォーブスが発行されると、多くの富豪は不幸になってしまうだろう。――その雑誌によって、世界中には、彼らより金持ちが沢山いることに気づく。もちろん、誰がよりハッピーかを比較するような評価はしない。――または、同様に、誰が最も稼いだかで富を比較にてみても、―――それは筋違いだ。富のランキングがどうであろうと、彼らは世界中で極めて希な人々なのである。 あなたは、フォーブスのリストを数えないようにすべきだ。それによって、よりハッピーな人と自分を比較する事に耐えなければならないからだ。私たちのほとんどは、そうしてしまっている。例えば、多くの人々は映画スターのような有名人の生活と自分の生活を比較する。―――そして、彼らが幸福だと考えて羨む。 これが普通の習慣になってしまうと、大きな間違いになる。 映画スターの名声が何かに書かれる時、彼らの中でハッピーだという人がほとんどいないということは、どのくらい書かれるか? 本当にこれらの名声の多くは、平均的な読者の生活よりもっと不幸な生活を送っているのだ。まだ、読者のほとんどは重要な結果を引き出していない。―――名声、幸運、グラマー(女性の)を兼ね備えた人々が幸福への階段をのぼっているわけではない。そのかわり、ほとんどの読者は次のように結論づける。自伝の著者は特にねばり強い人生を送っている。そして、そのグラマーが不幸な自伝を書くまでは、読者は、自分の生活と彼女の生活を比べる。 自分よりハッピーだと思える人と自分を比較することは、金持ちや有名人との比較だけとは限らない。人々は自分よりハッピーだと思える人なら、誰でも比較する。それは、従兄弟、知り合い、また、よくあることだが、かろうじて知っている誰か、に違いない。
実際、私たちが比較している人について、知っていることは少ない。想像上の幸福はもっとドラマチックで違ったものだ。哲学者で、家庭をつくった、ハレン テルシュキンの無類の言葉で次のようなのがある。彼女は、私の友人で作家のジョセフ テルシュキンの母だ。「私が知っている中で幸福な人は一人だけ。私が良く知らない人よ。」 この見方は、幸福への障害に対する一行の解毒剤だ。幸福をマイナスに比較する人々は、苦痛と、ほとんど、または全く知られていない悪魔に悩まされる。もし、誰もがこのことを知っていたら、幸福を他人と比較するのは止めていただろう。自分が良く知っている人について考えてみて欲しい。ハレン テルシュキンのコメントが正しいことが解るだろう。あなたのように、自分がよく知っている人がどれだけ不幸か知っている人は大概、経験を積んできている。そして、あなたが良く知っている人に関してでさえ、中に潜んでいる悪魔については、あなたは知る由もない。――その悪魔とは、感情的、精神的、経済的、性的、酒との関係、ドラッグ―――彼らは闘わねばならない。 私は去年のブックツアー中、ラジオトークショーをやっている若者と出会った。彼は特に成功、健康、幸福について私を攻撃してきた。彼は、美しい妻(写真がスタジオにあった)と小さい娘を愛していると語った。そして、大きな町でトークショーをやることに喜びを感じていると。彼はその町を気に入って、住んでいる。その中に不自然に聞こえるものは何もない。私は、つい、彼が全て順調にいっていると思ってしまった。希な運命の持ち主なのだと思ってしまった。私たちはコンピューターの機械的な愛について語り始めた。議論はインターネットへと移った。彼はその存在を歓迎していた。そして、私に語った。何故、彼が複合硬化症(希な病気)の情報を沢山探しているのか? ―――このひどい病気が彼の若い妻を悩ませているのだった。 私はバカだった。自分がみつけた法則を破って、彼の人生に不幸など、ほとんどないと思ってしまった。 日常生活で、私たちのほとんどは問題がないように振る舞っている。「元気?」と尋ねると、「快調よ」とか、「絶好調」と機械的に答えるのが普通だ。(誇張した言い方はアメリカでは珍しくない)。「元気?(How are you?)」と聞いて、頭を悩すような問題を聞きたい人はいない。(ある古いウィットに次のようなのがある。「元気?」と尋ねられた時、正直に答える人は病気のようなものだ)。しかし、私たちは、ハッピーな顔をした人には、誰でも金を払う。―――そのハッピーな顔に、素晴らしい人生だと私たちは思ってしまう。 次のことは、他人が幸福にみせかけている結果に違いないと思う。つまり、私たちは写真を撮るとき、何時もニコニコし始める。古い写真を見ると、カメラに微笑んでいない人がいかに少ないかわかる。明らかに、ほとんど人は自分に背いている。どの写真でも幸福そうに見せているに違いない。人生の苦難に、彼らは多分バカみたいに「3秒間微笑む」 ハッピーな顔のマイナスの効果は、私が度々想像するシーンによって描かれる。2組のカップルがレストランで食事をするため家を出る。カップルAは食事に行く途中、大喧嘩をする。カップルBも同様に大喧嘩をする。しかし2組のカップルがレストランに着くとき、彼らはみんな全てがうまくいっているように振る舞う。 「ハーイ、2人でどうしてたの?」1組がもう1組に聞く。 「ウン。絶好調さ! 君たちは?」と返す。 食事中、それぞれのカップルは喧嘩については何も言わない。家に帰る途中、カップルAはお互いに言う。「カップルBを見た?――なんて仲が良くて幸せそうなんでしょう! どうして私たちは、ああいうふうになれないの?」。一方、カップルBも車の中で言う「カップルAをみた? ―――以下同じ――――」 それは、カップルの喧嘩からくる不幸だけでは終わらない。彼らは別のカップルと比較することによって、今はもっと不幸になっている! 彼らが耐えていることは「複合不幸」と呼ぶことができる。―――愉快なことの中に愉快なことがあることを「複合愉快」と言えるように、「複合不幸」は不幸に不幸が重なることだ。そのように他人と自分を比較することは危険なことなのだ。 親密な関係の重要性 この2組のカップルの不幸は、他のカップルと無益に比較することによって悪化したというだけではない。喧嘩によって、もともとあった不幸が減るはずだったのだ。どのように? 2組のカップルはお互いハッピーなふりをせずに、お互いに発散していたら、レストランから出るときは、もう少しハッピーになっていたはずだ。全てのカップルがしなければいけないことは次のような答えだ。「子供は元気?」 「私たちは問題ない。だけど、息子と、昨日の夜、喧嘩しちゃってさ。ここにくる前」 このカップルが口をつぐんでももう一方のカップルは「あなた達も? 私達もよ!」という答えが返ってくる可能性が高くなる。 そのとき、何もなくて全てがうまくいっているように振る舞う代わりに、フリーになり、一方のカップルに喧嘩について本当のことを喜んで言える。そして喧嘩が夫婦間の議論の普通の範囲内であるなら、発散して、実際、全てのカップルが喧嘩していることが解る。度々同じ事で、お互いがより親密になる。結果、もし結婚している人々が他の人々に彼らの結婚生活について話せば、多くの夫婦間の悲嘆は避けられるだろう。ほとんどのケースでは、次のようなことを知る。実際に全ての結婚は問題を分かち合い、それらの多くは普遍性があり、彼らについて話し―ジョークでも―、夫婦間のストレスを本当に減らすことにつながる。 手短に言うと、いつもハッピーだと思われている人達と自分たちを比較することを止めること以外に、私たちの幸福が増える余地はない。 第8章 イメージ(想像すること) 他人と自分たちを比較することは自己破壊のようなものだ。同様に、比較することで、幸福への障害を減らせるものがある。――イメージだ。 子供の時代から、私たちは、どのように生きるべきか想像してきた。―――どのように成功するか、有名になるか、金持ちになるか。または配偶者のイメージ―――妻がどのくらい魅力的か、金持ちか、夫を愛しているか。または子供のイメージ―――どのくらいハッピーで愛しているか。もちろん、この3つ以外にもいろいろ想像していただろう。 不幸の公式 U=I-R イメージは強力だ。現実とイメージの差から、不幸をほぼ測定できるからだ。数学用語で、人の不幸を測定する公式は U=I-R だ。大半の不幸Uは、イメージIから現実Rを引いたものに等しい。 例えば、イメージは、男性の「中年の危機」の大本になっている。年輩の男性は次のことを実感している。彼らが職業的に下降線をたどっている事。その年で達成する事をイメージできることは少なくなっている事。この2つの差が「危機」になっている。 イメージの問題への答えは公式の中にある。不幸がイメージと現実の差だとしたら、次のことで、減らせる。イメージを落とし、現実を受け入れる。イメージをそのままにして、現実を変える。 どちらがいいのか一般的なことは言えない。現実を変えなければいけない時もある。現実は変えることはできないか、変える必要がなく、受け入れるだけという時もある。少なくとも平和になるはずだ。 個人の例が役に立つかもしれない。私が大きくなるときの記憶で最良のものは、家族が離婚(または離ればなれ)しなかったことだ。私は成長し、人生で堅く結びついていると信じて結婚した。この家庭へのイメージ―――妻は私を愛し、私は彼女を愛し、4人の子供は、夕食の席で高尚な話題について語り合うというイメージ―――は吹き飛んでしまった。 年を経て、このイメージはより強くなった。結婚して5年、37歳の時、私は離婚した。―――3歳の子供がいた。もはや私の個人的な世界は陥落した。わたしの想像は全て破壊された。―――完全なカップル、永遠の愛、4人の子供たち。離婚した男として、敗北者だった。なお、その上、4人の幸福な子供達を持つかわりに、1人の子供と恐れている人 に、幸福ではなく不幸を与えた。 面白いことに女性は「中年の危機」になるとは滅多に聞かない。これには2つの基本的な理由がある。1つは、一般的に、女性は、男性ほど、自分のアイデンティティーを築かない。―――ほとんどの女性は何かの代表になれないことで落ち込まない。もう一つの理由は、女性は生涯を通じて危機になりにくい。これは危機的という意味ではない。女性は、現実に合わせる性質を多く授かっている。女性は生涯を通じて感情的に困らない、男性は中年になるまで困難に直面しない傾向がある。 ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 再婚して2年後、私は妻のフランにうち明けた。家族の状況について不幸な気持ちを弱めることができないと。彼女は尋ねた。家族(フラン、娘、息子)のどこが悪いのか? 実は、――私は語った――息子と一緒にいる骨折りから30分だけ解放されれば、家庭生活は素晴らしくなる。「じゃあ、何故そうしなかったの」と彼女は言った。 その通りにした。しかし不幸な気持ちを減らせたのは、すごく価値のあることを受け入れることはできないというイメージを追い払った後だった。―――私の家族。ここに書いたように2人の子供は幸福に、立派に成長した。そして3番目の子供ができた。私たちは皆、運がよかった―――しかし、もし私がイメージを捨てていなかったら、――素敵で本当にハッピーな家族に感謝する事はできなかった。 もっとよく知るべきだった。私は、人をより早く不幸にしてしまうイメージの力を実際に見た。20歳代の時、35歳の正当派ユダヤ教徒の独身者に会った。彼の独身の身分は私を惑わせた。例えば彼の年で宗教的な独身は珍しい―――全ての信徒、信仰に従うものは、結婚を支持し、早くに性的な独身から結婚へと至る。他方、彼はいかに孤独か、いかに結婚を切望しているかについて、ひどく不平を言う。 「だったら、どうして結婚しないの?」私は訊いた。 「僕は、まだ望ましい女性に会っていない」彼は真剣に答えた。 私は、その答えから離れさせなかった。 「(望ましい女性が)どんな人か言えるの?」私は続けた。 「言えるとも!」彼は断固として答えた。「僕が望んでいる人は―――トーラー(聖書)を学んでいるプレイボーイや、プレイメイト 」 本当に言ったのだった。トーラー(聖書)を学ぶプレイボーイ誌の折り込みページのイメージには、私も興奮した。しかし、私の20歳代前半でさえ、これは現実主義というよりも滑稽だった。にもかかわらず、この男は自分が孤独であることを認め、そのイメージのため結婚していない。彼がそのイメージを捨てていれば、恐らく素晴らしい妻を見つけているだろう。しかし、彼がそのイメージを捨てていなければ、今も独身であることは間違いない。人がどのくらい偉いか分かるだけ人は、どのくらい幸福かを見失う。彼はイメージが現実になった完璧な幸福だけを待つからだ。 彼と私についてお話しした。それによって、イメージが如何に強力で、潜在的に破壊的かわかる。私の例では、イメージのレベルを落とし、現実を悟った。他の例では、私は、現実を変えた。―――権威はあるが、面白くない仕事を残したときのように―――それを変えた。 破壊的な力にも関わらず、イメージは建設的な働きをする時もある。―――とくに感情的に破滅した生活で。正しく使われた時、人々を鼓舞し、生活を改善させることがある。ある精神科医が患者について話している。彼(患者)の母は、病的に彼と親密だった。彼に女々しい身なりの服を着せ、甘やかした。彼女が結婚した男は、家から遠いところで働かねばならなかった。そして月に2回、2〜3日家に帰るだけだった。 彼女の夫が――患者の父――帰宅した時、両親は、ほとんど全ての時間外出して、彼は1日中、映画館に放って置かれた。彼はそこで1日中映画をみていた。精神科医の言葉では、「キャリー グラント、スペンサー トレイシー、ジミー スチュアートで育った」。後に、高校で、彼は他の男の子と違うタイプだった。仲良くなった友人たちは、自分の父親と仲がよかった。彼は人生と映画に良いイメージを持っている友人達にいつも囲まれていた。(今日、不運なことに、映画は男の子のイメージをあまり提供しない。社会は、子供たちに現実の父親像をあまり提供しない)。このイメージの大部分のお陰で、彼は職業的にも、息子に対する父親としても大成功した。 ためになるイメージと、害になるイメージを見分けることは、必ずしも易しくない。宗教的な信者の現実はハッピーでない。イメージの大部分はよりハッピーな生活を送ることを阻んでいる。(例えば結婚すること)。他方、母に少女のように扱われ、父にほったらかされた若い男にとって、イメージは良い人生のための生命線だ。 イメージ(想像すること)は社会を荒廃させることがある イメージでもたらされる破壊で最大のものは、社会全体に及ぶ。個人の生活で、完璧なイメージは不幸をよぶ。完璧な社会のイメージは、――ユートピアのイメージ――残酷非道な悪をもたらすことがある。結果、無理やり社会のイメージに合わせるのに社会を変え、20世紀最大の悪につながった。 イメージと現実を比較することは、時として荒廃と不完全な人生をもたらす。しかし、社会と完璧なイメージを比較する事で、社会に価値をもたらすことがよくある。ユートピアのロシアをイメージした共産主義者は帝国主義社会をメチャクチャに破壊した。しかし彼らがつくった場所は価値のあるものとはほど遠い。ワイマールドイツのひびが入った民主主義と大帝国のイメージを比較したドイツ人は不完全な民主主義をつぶした。世に有名なアウシュビッツを生み出した。今日の中東のある信者は、ひびのはいった社会と、宗教のユートピアのイメージを比較した。そのユートピアは神と信者によって統治される。結果、中東に宗教的な全体主義の国ができた。アメリカ人は、人類史上で最も適正だ。彼らは、社会と次の事を比較した。競争、民族、性差別主義/他の自由、またはイメージされたヒビ、――または牧歌的な過去のイメージ――。これは、非難することと、極端に、また不適正に改正することによって弱まっている。 一方、よりよい社会のイメージなしで、良い世界への希望はもてない。そして努力する上での案内がなくなる。しかし、イメージは火のようなものだ。適切に取り扱う必要がある。 第9章 失われたタイル症候群 人の天性で、幸福を破壊する最も良い方法。それは、美しい場面をみるとき、キズがはいっている部分、なくなった部分をじっと見つめる事だ。(それがどんなに小さくても関係ない)。 この傾向は、現れやすい。タイル張りの天井を想像してみて欲しい。その天井は、タイルが1枚欠けている。―――あなたは失われたタイルに注目するだろう。結果、天井が美しいほど、失われたタイルに集中する。それは天井の残りの楽しみにも影響する。 今、完全な形として存在するはずの天井か何かがあるとしよう。欠けている細部に集中することは良いことだ。細部を軽んじる内科医や、1枚のタイルを見落とす建設業者なんか誰も要らない。しかし、物質的に望まれることや、必要なことを、感情面に当てはめたりすると、自己破壊的になってしまう。天井を完璧にすることはできる。しかし人生は完璧にできない。人生では、いつもタイルが欠けている。そして欠けている物ついて想像を巡らす。 この不幸をつくる傾向を(欠けていることに心を集中させるような)、私は、2つの理由で痛切に感じた。1つめは、頭に毛のない男がうち明けた事だ。「僕が部屋に入るとき、みんな僕の髪を見るんだ」。かわいそうなやつだ。彼が人の近くにいるとき、彼が見るものは、他人の頭なのだ。鏡を見るとき、彼は髪のない頭以外は目に入らない。他人にとって、彼の髪の毛がないことはほとんど意味がない。このことを、彼はあまり気づいていないのだ。 髪がある人は、普通、頭に注意していない。一部の人は、髪の毛がないことに気づいてさえいない。これを知った彼はショックを受けた。5人の人に会った後、彼らに髪の毛があったかどうか尋ねられれば、私は思い出すのが難しい。 髪がある人にとって、髪は、幸福にとって大切な事ではない。その男が考えているように。髪がある人が、ない人よりハッピーかどうか調べれば、哲学用語の「知覚表象」が正しいかどうかが確かになる。私はそのような研究があるかどうかは知らない。しかし、髪と幸福の相関関係を疑わしく思っている。―――もしあるとしても、髪を失うことが重要だと感じている人を不幸にするだけの結果だ。 失われたタイル症候群は至る所にある。体重が重い人は、太った腹と完璧な人ばかり見る。ニキビがある人は、キズのない肌ばかりを見る。妊娠することが困難な女性は妊婦と赤ちゃんばかりを見る。重量超過、ニキビ、はげ、子供がほしい、のいずれでもないとしても、あなたにも失われたタイルがあるだろう。あなたはどんな現実――または単に頭の中だけのこと――にもキズをつけ、幸福を小さくしていることもある。 2番目の場合は、もう少し前のことだ。私は最初、友人のジョセフ テルシュキンから失われたタイル症候群について学んだ。私達はともに30代の独身で、度々、デートと女性について話していた。私たちが――特に私が――最も多く繰り返したテーマは、女性の性格で1番大切なこと(MITIAW:Most Important Trait in a Woman)を見つけることだった。私はMITIAWを見つけることに取り付かれた。デートの後、決まって私はジョセフに電話した。MITIAWが本当に何なのかを述べるために。あるデートの後、その答えは「個性」だった。別のデートの後、それは「値打ちのある良い事」だった。「ジョセフ」私は確信を持っていった。「今日は、ついに、女性の性格で1番大切なことがわかったよ」。そしてそれが何なのかを告げた。 ある夜、この数年間のバカバカしい探索の後、ジョセフは私の目を開かせた。私は、MITIAWが何かを話そうとした時、彼は遮った。「デニス」彼は言った。「言わなくてもいいよ。君が言おうとしていることは知ってるよ」 「何でわかるんだ?」 私は続けた「君は女性についてわかっていないよ、白状するけど」 「構わないよ」彼は答えた。「君が話そうとしているMITIAWは、今夜のデートでは、なかったものだろ。」 彼の正しさに当惑してしまった。そして、気づいた。私が何年も宣言してきたMITIAWは、デートした女性に欠けているものばかりだったのだ。私が結婚相手を見つけていないことは、疑う余地もなかった。素晴らしい性格を全部兼ね備えた人はいない。明らかに、全ての女性には、MITIAW(女性の性格で1番大切なこと)が欠けているのだ! MITIAWの女性を見つけたいと真剣に考え、値踏みしている時、私は自然に自己破壊サイクルに入っていた。 私たちは度々宣言している。私たちが考えていることは、一番大切な性格を持つ人には、欠けていると。私たちが信じること――または、結果は―――子供に欠けていることは、子供の性格で1番大切なことだと言うことだ。配偶者に欠けていることは、夫か妻にとって一番大切なことなのだ。そして更に悪いことに、他の子供たちや配偶者にこの性格を探してしまう。 言い方を変えると、こうする事によって、どういう事になるか? 言うまでもなく「悲惨」だ。何が欠けているのか、何が一番重要な性格なのかに集中してしまうことは、人の天性だ。自分がやっていることに集中しようとしない場合、欠けたタイルにこだわることを止めない場合、それは幸福への克服できない障害になる。 何をするのか? 失われたタイル症候群で効果的な対処をするため、必要なこと。 1.失われたタイル症候群が如何に強力かを知る。 2.失われたタイルが何なのか出きるだけ正確に把握する。これによって、何があなたを困らせているか――少なくともあなたが考えていること――をハッキリと知ることが出きる。 3.このタイルを幸福の中心にしていないかどうかを考える―――または、欲望は満足することがないかどうか。 愚かな例を引用すると、もし失われたタイルが、すごい車だとしたら、あなたは、失われたタイルに苦しんでいるのではないことは保証できる。失われたタイル症候群に苦しんでいるのだ。 獲得しなさい。忘れなさい。または置き換えなさい。 失われたタイルが何なのか、そしてそれを得ることによってあなたは本当にハッピーになるかどうかが分かれば、あなたは3つのうち、1つだけをやるべきだ。 それを獲得すること。忘れること。または違うタイルに置き換えること。もし3つの内のどれもしなければ、失われたタイルはあなたを不幸にする。 タイルが幸福にとって重大なものでなければ、最適な答えは忘れることだ。人生はあなたが取るに足らないことに困れるように、障害をたくさん与えてくれる。一方で、もしタイルが欠けていることが幸福にとって重大であるなら、もちろん手に入れること。もし、それが不可能であるなら、次善の策は、満足できる別のタイルに置き換えることだ。恐らく実際のタイルと同じくらいに満足できなくても、そうすることだ。もしこれらの選択が両方とも実行できることでなければ、出きることは「忘れること」。そして欠けていない方のタイルに集中することだ。 獲得すること 2回目の結婚の数年間、私は幸福に結婚生活を送り、2人の子供(娘のアニア--妻の前の結婚の時の子供。そして私の前の結婚の時の子供、デイビッド)を愛していた。そして私の職業生活も順調だった。しかし、人生で何か重要な物が欠けていると強く感じた。子供がもう一人欲しかったのだ。子供をもうひとり持たない理由はない。妻と私は40代半ばだった。私達にはすでに2人の子供がいた。そして旅行、独立、自由を愛した。しかし私はこの失われたタイルを忘れることができなかった。どんなに忘れようと思っても他のことに集中しても、失われたタイルがヌーッと現れてきた。そしてそれは適正なものだった。しかし私たちの子供アーロンが生まれて以来、私はどんな重大なことにも失われたタイルを感じなくなった。 私は、本当に幸運だった。私は実際に自分の失われたタイルが何であるかわかり、そして見つけることができた。多くの人にとって、これは可能なことではない。このようなケースでは、多くの人は忘れるか、他のことに置き換えるかを選ばねばならない。私のケースでは、子供のタイルを他のタイルに置き換えることは2番目の選択だった。例えば、妻と私はお互い、もっと他のことに集中できた。はじめの2人の子供ともっと多くの時間を過ごし、エネルギーと注意を仕事へむけた。 忘れる 他の個人の例は2番目の選択を描くことだ。――失われたタイルを忘れることだ。離婚したとき、私の上の子は3歳だった。そして、その子の母と私は共同で物質的な保護をすることに同意した。デイビッドのために働くように見えるようなことを始めてから、11年後、もう十分働いたと思った。しかし程なくして、デイビッドが私の元を去って、彼の母のところへ行くことに苦痛を感じなくなった。毎日デイビッドと一緒にいないことは、私の人生で本当の失われたタイルだった。そして上の例と異なって、手短に言うと、このタイルは見つけることができない事はハッキリしていた。私は、そうして考えるのを止めた。――忘れること――私はデイビッドと一緒にいる間、出きる限り、多くの時間をデイビッドと一緒に過ごさなかったことについて。皮肉にも、デイビッドがずっと私と一緒にいたとした場合よりも、もっと多くの時間、彼と過ごすことを終わりにできた。 置き換える 全ての人は、意識的に、または無意識的に、失われた物を別の何かに置き換えている。私は、例えば、レオン フライシャーは20世紀の最も偉大なピアニストの一人だと思う。彼のキャリアの早い時期に、彼は不思議な苦悩を背負った。右手がピアノを弾けなくなったのだ。最も偉い精神科医も効き目がなかったので、彼は自分のキャリアを次のことに変えた。教えること、指揮すること、右手のために書かれたピアノ曲を弾くこと。多分、この置き換えはどれも、両手でピアノを弾くように満足できるものではない。しかし、彼は、それらの大家になった。右手が不自由なままで。 第10章 幸福を成功と同じだと見なすこと 幸福への障害の中で最も普通なもの。それは、幸福が成功に等しいと思うことだ。この等式は男性を特に苦しめているが、同様に職業を持つ女性をも苦しめるようになっている。 幸福の等式が間違っていることを表すのに、単純で効果的な方法が2つある。 1つ目は、あなたが幸福になれる成功のレベルを書いて欲しい。例えば、会社のCEOになること? 今の3倍稼ぐこと? 会社を持つこと? ベストセラー作家になること? 私は次のことが分かった。人は、自分がハッピーになれる成功を書く時、その成功のレベルがどうであっても、幸福のレベルは大して変わらない。 達成する成功がどうであっても、一度達成してしまえば、すぐにもっと高い成功のレベルを目論む。もし、あなたにとって幸福と成功が同等だとしたら、ハッピーになれるような成功を手にすることはまずできない。幸福になれる成功は、達成できる成功より常に大きい。成功と幸福を同一視することは、フットボールチームがダウンを奪うごとにゴールポストが10ヤードずつバックするようなものだ。――あなたのチームはもっともっと成功するかもしれないが、ゴールポストには届かない。幸福に影響する成功のためには、「僕は今、成功している」(例えば、「僕はゴールポストに達した」)と言えなければならない。あなたは、もちろん、更なる成功を探し続けるだろう。しかし、あなたがハッピーになるのに必要な状態にはならない。 2番目に、成功と幸福が同じではないということは、大いに成功した人に聞いてみた結果だ。そうすれば彼らが幸福かどうか分かる。私は大成功した多くの人達と話し合ってきた。そして分かった。幸福な人は成功する前から幸福だったのだ。――しかし、その成功は確かに彼らの幸福に加わった。同様に、成功する前から、不幸だった人は今でも不幸なままなのだ。結果、現状では、彼らがスタート地点に立った時より不幸になっている。なぜなら、彼らは、成功が幸福だと思っている。その成功は彼らを幸福にしない。彼らは更なる成功を目指して、更に多くの時間をかける。従って、彼らは、本当にもっとハッピーになれるような事には、多くの時間を費やさない。 どうして成功は重要なの? 成功が幸福と同じでないという3番目の理由は、なぜ成功を目指すのかということだ。もし成功がとても重要だとしたら、「何故」を見つけることは必須のことだ。 成功を楽しみたいということには、かなりの理由がある。成功を表す物質的なもの――特に、あなた自身と家族の経済的な安全――を欲しがること自体は健康的なことだ。あなたの努力に価値を見いだすことや成功を欲しがることも健全なことだ。 しかし、幸福は成功次第だと考えて、幸福を求めているのであれば、不健全だ。また、幸福は貯金の残高が増えることだと認識していても同じだ。幸福には全くつながらない。何故そうしたいのかを見つけるべきだ。成功するだけではハッピーになれないと分かった時のみ、執拗に成功を求めることから解放される。 「なぜ自分は成功したいのか?」を自分に問いかけると、面白い事が分かるかも知れない。例えば、大成功した人の多くは成功しようとしてきた。何故かというと、彼らは両親から、成功した時だけ、かわいがってもらえたからだ。だから彼らは、かわいがってもらうために成功を目指しているのだ。これは一つの理由だ。ついでに言えば、成功した人を羨むのは馬鹿げている。―――成功の量を緩和できない悪魔に、彼らの多くは駆り立てられているのだ。 一部の大成功した人にとって、職業上の成功の効果はドラッグのようなものだ。痛みを癒すために、常に増加を目指している(その結果はワーカホリックという用語が当てはまる)。長期にわたる気晴らしはなさそうだ。不可能なときは悲惨になる。賞賛(拍手喝采)のために生きている俳優は、賞賛がない時、しなびてしまう。 幸福における仕事の役割 仕事の成功は幸福とは言えない。しかし、仕事は主な幸福源だ。――もし仕事が面白くて意義のあるものであれば。 大成功の仕事で、この二つの条件が満足されないことがよくある。金をつくるため、成功するため、初めて仕事に従事する時、その仕事が楽しくて有意義なことは滅多にない。お給料のないボランティアをする人は、億万長者よりも多くの幸福をその仕事から引き出す。あなたが、どの程度、仕事を楽しみ、意義を引き出しているか確かめる簡単なテストがある。もし宝くじで勝ったら、仕事を続けるかどうか自分に尋ねてみることだ。 私は、このルールが自分の仕事にも当てはまる事分かった。私に大成功をもたらした事は、大きな幸福をもたらさなかった。そして私に最大の幸福をもたらした事は特に成功ではなかった。 私の仕事で最大の成功はラジオトークショーをやることだった。1982年に始めた。特に毎日、放送し始めてから、私は少し有名になった。そして良い収入になった。しかし、大きな幸福をもたらしたラジオの仕事は、週に一回、日曜日の夜に放送されるだけのものだった。それによって有名になることは、あまりなかったし、毎回、数百ドルの収入しかなかった。しかし10年間、毎週、私はReligion on the Line (目の高さの宗教)をやることが楽しみだった。番組の中で、私は、プロテスタントの牧師、ローマ・カトリックの司祭、ユダヤ教のラビ、そして、度々、第4宗教の代表の中で、司会をやった。私は宗教について話すことが大好きだった。世界中の宗教の代表と会うことによって視野を広げることが気に入っていた。毎週、10万人聴衆のために当代一の宗教的知性をとりまとめる仕事をうまくこなした。友情についても続けた。宗教への理解をもっと深めた。そして、次第に、神と徳への道がたくさんあることを認めることに極端にオープンになっていった。幸福を増やすための有力な組み合わせをつくることは最高に面白かった。 私はそのショーを去り、50万人の聴衆がいる3時間のトークショーを毎日、ゴールデンアワーにやることになった。遙かに多くの人に影響を与え得ることは大きな満足になった。そして収入は5人の家族の稼ぎ手としては大変助かった。しかし実は、仕事の点からは、あまり名声がなく、金にならなくて、「成功」ではないショー、Religion on the Line をやるほうが、よりハッピーだった。 さらに、私の作家としてのキャリヤーでは、過去13年間、自分のニュースレターを書いて出版することから、特に幸福を引き出した。しかし購読者が1万人になることはなかった。月2回発行する、時間を食うベンチャーから金銭的な収入は引き出せなかった。しかし、それを書くことで、巨大な幸福を得た。 私の3つ目の大きな幸福の仕事源もまた、ほとんど収入をもたらさなかった。一般に限定される―――ユダヤ神学校で聖書を一行一行教えること。 私の人生と仕事は、本当に信念を強化した。仕事の喜びと意義が幸福の源だ。成功のレベルではない。 金と幸福 もし、職業的、物質的成功が幸福と同じだという事に反対して、私の主張を全部、認めたとしても、否定できないことがある。金は幸福を増やせるという事だ。美しい家を持つことには大きな喜びがある。教育、医療、その他、子供に与えたいものを与え得ることには大きな安心がある。素晴らしい音響機器でバッハを聞くことは大きな喜びだ。世界中を旅行する事が出きることで大きな満足がある。経済的な問題で心配しなくてもすむことで、大きな心の平和がある。 幸福に対する金の強い潜在的な力は、前の話(成功は幸福と同等でない)を無効にしないだろうか? 少しも成功は成功で、幸福は幸福でない。 しかし、経済的成功と幸福は同等でないに違いない。―――経済的成功を目指すことは、必ずしも幸福の破壊ではない。経済的成功を求めることが破壊的なのは、幸福を増やす目的ではなく職についた時だ。自分の利益のために職についた時だ。なぜか。前に示したように、なぜ成功したいのかを決めることは必須のことだ。 次のような理由で経済的成功を望むのであれば、幸福を増やせる。―――より大きな喜び、心の平和、愛する安心―――特に心の経済的な平和を得るとき、他のより深いゴールを目指す。一方でもし、金に対する欲望が、物欲からきている場合、または、他人によく見せる必要からとか、単に金持ちになりたい欲望からとかであれば、幸福を増やさない。減らすかも知れない。なぜなら、一度金持ちの状態になっても、まだ次の状態のままだからだ。つまり、もとからあった不幸、不健康な欲求、金を作ることが不幸を取り除くとは思えなくなるという新たな問題。不幸で貧しい人は、金が自分をハッピーにすると夢みることができる。不幸で金持ちな人は、そんなことを思うことはできない。 あなたは、もっと大金をつくり、成功するために、何を犠牲にしなければならないかを決めなければならない。多くの人にとって、大金を扱うことは、遙かに多くのの大切な幸福源を止める事になる。例えば、次のことをしなければならないのなら、経済的成功はあなたをより不幸にし、ハッピーにはならない。家族を無視する。あなたが憤慨する仕事をする。最も価値あることを妥協する。友情をあきらめる。しゃくに障ることに耐える。 成功を定義する ほとんどの人は成功について考えるとき、職業上の成功や物質的な成功を考える。このタイプの成功は幸福と同一と見なすことができない。しかし、幸福へ導く成功には無数の形がある。愛、人間関係、子育て、他人の人生に接すること、での成功はより深く、知識を得て、良いものを手に入れ、誰かについて学ぶ。 ではなぜ、多くの人は、成功を職業的なものや物質的なものに限定するのか? これは複雑な質問だ。なぜなら、人生について多くの見方を持つ心によるからだ。 成功を職業上の成功や物質的な成功に限定する傾向がある理由は、基本的な男女の引力による。男性は特に、幸福を職業的、物質的な成功と同一視する。なぜなら、それは女性を引きつけるからだ。女性を引きつけたい男性は、女性から愛されるように、注意を引かれるようにするために、例えば、切手の大コレクションをしたりする。切手収集は主として男性の楽しみだ。もちろん、男性は同様に、女性の行動に影響する。多くの女性が幸福を美しい事と見なすのはその理由だ。女性の身体的魅力についての男の価値感は、片や、女性の価値感になる。男性の職業的、物質的成功に対するものと同様だ。 成功を狭い物質的なものに限定する2番目の理由は、また、基本的なものだ。―――ほとんどの人は競争本能を持っている。他人よりもっと成就して、もっと富を築いているように見せる必要がある。これは現代の文明社会の構図ではない。ニューギニアの高原では、男性は物質的な価値を見せるために、豚の牙を身につける。ニューギニアからハリウッドにきた女性は高価な宝石で自分の富を見せる。 私たちが成功を狭く限定しがちな3番目の理由は、職業的、物質的成功は普通、もっと有意義な成功の形より、魅力がある。例えば、ほとんどの人は、良い友人をもつ事が遙かに有意義であるということを認めるだろう。幸福は遙かに大切だ―――職業上の大成功より。しかし、私たちの中で、仕事に中くらいに成功して、深くて慈悲深い友情で「大成功」していることを特徴としている男はあまりいない。同時に、いつも世界中に友人を持っているかどうかを知らずに富のある人を成功者だと呼ぶ。私は「成功」という用語をもっと正確に使うワールドワイドな動きを予想できない。しかしそのような動きは、結果、大きく人の幸福を増やすだろう。私たちが、そういう祝福された時勢になるまで、成功に関する最近の定義が幸福より不幸を増やすことになっていることを素直に認めるべきだ。 人は、たくさんの陽炎のようなものに唆されている。キラキラひかっていたら、私たちはそれを探す。この欠点は人の天性の一つだと言うことは、西洋人のエデンの園の物語で明らかだ。アダムとイブは不死の他、誰もが望む全てのものを持っているように見える。そこには彼らが持つ物を全て破壊できるものが一つあった。―――善と悪の知識の木の実を食べること。それは「見た目、美しい」ものだった。そして、私たちのように(アダムとイブは全ての男性、全ての女性)、「見た目、美しい」ものは幸福を増やすと思い、禁じられた実を食べる。 美しい家、まぶしい車、ゴージャスな服、キラキラ光る宝石、もちろん魅力的な男女は全て「見た目、美しい」。それは、私たちが実際に幸福になれること全てを犠牲にして、 物質的成功を目指す理由だ。―――それは魅惑的、魅力的なので、(もし、私たちが全くその通りに問題を考えれば、)それが自分をハッピーにするだろうと考える。どれだけ多くの男が、「見た目、美しい」ことを目指してきたか? 友情を決して深めることなく、知識と知恵を深めることなく、―――幸福につながるもの全て――を見ることなく、子供と妻を無視してきたか? 全ての信仰(宗教)の聖職者が言ったことを、度々思い出す。「私は多くの男の死に立ち会った。そして彼らのうち、次のように言ったものは一人もいなかった「もっと長い時間オフィスで過ごさなかったことが残念だ」 第11章 幸福は面白いこと 幸福は面白い事と同じではない、というエッセーを初めて書いた時、息子のデイビッドは7歳だった。彼は、パソコンの画面を見てそのタイトルを言った「幸福は面白くない」。彼は困った顔をして言った。「面白くないの?」 子供にとって、面白いことと幸福を区別できることは、あり得ないのだ。大人になっても、多くの人はこう思い続けている。―――それは不幸な事だ。なぜかというと、面白いことと幸福が同等だと言うことは、幸福への大きな障害なのだ。 ほとんどの人はこの公式を信じている。 H=nF、または、幸福の量=面白いことのn倍。友人の一人がかつて私に話した。「僕はいつも思うんだ。面白い経験を貯めることが出きればハッピーになれると。」 幸福と面白いことは同じだと、ほとんどの人は信じている。彼らに尋ねてみなさい。例えば、幸福な人の場面を想像してみるように。ほとんどの人は、面白がっている人の絵を思い浮かべる。(例えば、笑っている人、ゲームを楽しんでいる人、パーティーで飲んでいる人)。 子供を抱き上げているカップルを想像する人は、あまりいない。結婚して30年のカップル、面白い本を読む人、幸福になる事をしている人、を想像する人は少ない。 別の例で、面白いことに接している人で重要なことは、次の場面を見ることだ。つまり、人が公式に重要なこと述べる滅多にない場所。―――独身の人たちが。面白いことを提供する事と物―――スキー、ボート、テニス、映画、スポーツの試合を見に行くこと、外食に出かけること―――彼らが考えるその他の圧倒的なことは、思い出作りには大切だ。ほとんどは、見込みのある異性たちのためであって、友人と楽しい時を過ごすためではない。面白いことはそれ自身、人が探すものの中で、繰り返し必要と言われている。大人といえる人の特質を決めるように。 次の広告はニューヨークのたった一冊の雑誌からのものだ。多分、アメリカの洗練された独身者は胸にこたえる。彼らは広告を載せる毎に平均100ドルを支払う。(括弧内はわたしのだ) ・ 30代前半のハンサムな男性。面白くて、ロマンチックな関係を探しています。 ・ 魅力的なロングアイランド。陽気です。愛らしくて誠実な45〜55歳の白人男性を探しています。真の面白いことのために(真でない面白いことは何だろう?) ・ ユダヤ人男性、45歳、(ボート、スキー、面白い)関係を分かち合う人を探している検眼士。(検眼士にとって面白いことが如何に重要か、ボートとスキーを一人でやることは明らかにしていない。彼は付け加えている「面白い関係」) ・ 長いカール髪、かわくて、職業をもっていて、面白い。 ・ 大成功、大きな魅力、高い教育、面白くー優しいマンハッタン人は、器の大きい男性を探しています。 ・ ロマンチックで、面白くかっこいい50歳以上の人を探している刺激的な女性です。 ・ 魅力的で離婚の白人女性。41歳。面白くてかっこよくて敏感な人を捜しています。 ・ 魅力的で、元気な、独身の白人女性。スポーツ、料理、旅行、面白いことが好きです。 ・ 成功している職業を持つ人。46歳以上で、面白いセンスを持つ人。また、面白いことを大切にする人。 ・ 職業を持っていて、強壮で、ハンサムで、キリスト教の男性。28歳。女性を探しています....ダンス、ビーチ、元気で面白い、まじめな人。 友人・仲間として、面白いことを楽しむ人を選ぶべきだ、ということを認めたとしても、面白い事を強調しすぎるという問題が残る。なぜ面白いことがそんなに大切なのだろう? 何故、面白いことへの追求に容赦がないのだろう? 明らかな事は、面白いことは楽しめることで、私たちは楽しいことを求めるようにプログラムされている―――セックス、食べ物、飲み物、5感を喜ばせるもの全て。しかし、何故私たちはそれほど熱心に面白いことを追求するのか。もっと深い理由がある。彼らは面白いことが幸福につながると信じているのだ。 よくあることだが、結果的に失敗してしまう理由は、無能力によるものではない。それは、間違った前提による推論だ。古代の海の男は、遠くの海へ行くことを拒絶した。世界がなくなるところへ落ちてしまうことを恐れたのだ。理由は、間違っていなかった。彼らは間違った前提から推論したのだ。―――地球は平らだという間違った前提からの推論。また、多くの人がいくパーティー、セックス、映画、服、クラシックカー、他、彼らを幸福にしそうな面白いもの全ては、間違った推論ではない。間違いは、元々の前提―――もっと面白いことは幸福につながる―――なのだ。 この間違った前提によって、多くの人が面白いことを追い求める。仕事での成功を目指すのと同じくらいまじめに。例えば、私の経験と私へのレポートで、当てはまらないものは、ほとんどない。多くの人は、大して面白くないのにパーティーに行く。一人でいる方がハッピーだ。しかし、もっと適切に言うと、面白いパーティーは面白いと連想されている。そして、面白いことは幸福につながると信じられている。 人々は、ずっと次のように答えている。面白いことの提供者は、幸福を提供せず、時には、それほど面白くないことを提供する。もし今夜のパーティーが余り面白くなくて、幸福が増えなければ、それは間違ったパーティーだ。次回、もっとトレンディーで面白く、リッチなグループと一緒だったら、素晴らしい時を過せるはずだ。いつかこの考えは、こうなる。素晴らしい時を過ごす人々がいて、ハッピーな人がいる。 面白いことと幸福とはどのように違うか 面白いことが何故幸福をつくらないか、矛盾さえしているという事を解かるため、面白いことと幸福の主な違いを理解しなければならない。面白いことは、その時だけのことだ。幸福は継続する。言い換えると、面白いことは「〜している間」で、幸福は「〜している間と、その後」なのだ。 セックスがよい例だ。人生で(女を)そそのかすことや、そそのかされる事ほど、面白いことは、あまりない。そして誰かとエキサイティングなセックスをする。しかし、そそのかした人の面倒を見なければ、結果、ほとんどの人はハッピーになれない。上辺だけのセックスは、「面白いことは〜している途中」、「幸福はその後」をうまく説明している。 面白いことと幸福の違いについて更に付け加えると、面白いことには3タイプがある。 アミューズメント(娯楽) 面白いことの最初のタイプはアミューズメントパークへ行く事ような、単純な娯楽だ。スポーツ観戦、映画やテレビの鑑賞も含まれる。これらの活動の全ては面白いが、幸福をつくるものは1つだってない。これは他のどの議論にも反していない。このような活動は人生で建設的な役割を演じることもある。賢明に使用される時、それらは幸福を維持する。―――くつろぐことによって、問題への集中をゆるめることによって、笑えることによって。 しかし、娯楽は幸福をつくらない。困ったことに危険をもたらすこともある。なぜなら、娯楽が終われば、楽しみも終わる。不幸な人々は、不幸から逃げるために娯楽を当てにするようになる。そして、常に娯楽を追求するようになる。 幸福を減らす面白いこと 面白いことの2つ目のタイプ。これは実際に幸福を減らすことがある。それは、不道徳なことや不法以外の何物でもない。麻薬をやるのと同じようなものだ。それは、例えば、脂っこい物を食べることのように、邪悪なこと以外の何物でもない。美味しい物を食べることは大きな楽しみだ。しかし、多くの人にとって、これらの食べ物は、幸福よりは不幸の元になる。次のグループで、より幸福になるのはどちらか?―――脂っこい食べ物を楽しむグループ。普段は楽しみを押さえ、望ましい体に保つことを学んだグループ。 義務的な面白いこと 「途中 vs 後」の法則が示す、3番目の面白いことのタイプは、私が「義務的な面白いこと」と呼んでいる事だ。その特徴の違いは、個人の欲望によってというよりは、社会の期待によってもたらされる。 よい例は、大晦日とクリスマスイブ。この時、人々にとって、クリスマスの目的はウキウキすることで、大晦日の目的はふざけることにある。しかし、一年うち、この時に不幸が増えることは誰もが知っている。義務的なパーティーへ行く人と行かない人の両方とも、不幸が増える経験をしている。クリスマスと大晦日のパーティーへ行かない人は、誰にでもある面白いことを見逃していると思う。大晦日に一緒に酒を飲む事は、次のことを示している。「義務的な面白いこと」は期待された面白いことをもたらさないことが度々ある。それは、確実に幸福をつくらない。 面白いこと VS 幸福 ハッピーな生活には、面白いことは断然大切だ(次を参照)。しかし、その特性を理解しないでいると、幸福が減る。一つの理由は、面白い事は麻薬と多くの点でよく似ている。面白いことは幸福をもたらすと思って、多くの男女がその中毒になる。エネルギー、金、時間、を増やす面白いことを追求する人々は、生活と家族にとって、大きな出費になることがある。 麻薬の別の特徴とも、似ている。―――次のことは一つ目の理由よりもっと強く作用する。多くの人にとって、面白いことは、「キック(興奮)」が不十分な中くらいの事では満足されない。そして幸福と面白いことが同じだと思う人にとって、中くらいの面白いことを探すことは、中くらいの幸福を探すことと同くらいばからしい事なのだ。 もう一つの問題は、面白いことの興奮度の閾値(レベル)は上がっていくということだ。現実問題だ。あなたが初めてキスをした時、――ボーイフレンドかガールフレンドとのほんのちょっとのキス―――どれくらい楽しかったか考えて欲しい。そして、何回かのキスの後、十分に楽しい事ではなくなってしまう。愛撫が始まる。そして十分楽しむことができるように服も脱ぐ。結果、セックスになる。この時、面白さと刺激が大幅に失われたため、面白いことが目的の人は、もっと楽しいことが必要になる。不貞で、互いに他のパートナーとのセックスを探すことは、その例かもしれない。その生活様式は、普通、幸福よりも孤独と結びつく。 これに関して、私は時々考える。ハリウッドのスターは世界中で活躍している、ほとんど天与の役者だ。この最も金持ちで、美しく、有名な人々は、常に最も面白いことに接している。―――最高のパーティー、グラマーなパートナーとの最高のセックス、高価な車、豪華な家、エキゾチックな休暇、最も多い契約のチャンス、最高のスポーツ観戦、最高の劇場鑑賞―――これらによって、単純には幸福にならないことがわかる。初めに指摘したように、全ての面白いことの背後には、悲しい生活があることを、実録や回想録は示している。アルコール中毒、子供を失った、生活が低下した、深い孤独、他のいろいろな中毒について書かれたハリウッドスターから、私たちは大きな恩を受けているように感じるべきだ。もし私たちが他人の人生から学ぶことが出来れば、―――知識を最も良く定義するかもしれない特徴―――面白いことは幸福につながらない、と言うことを証明してくれる人々に感謝する。しかし、ほとんどの人は他人の人生からは学ばない。彼らは次のことを信じ続けている。前の面白いことが彼らをハッピーにできなかった何かを、次の面白いことはするだろうと。 麻薬の品質のように、同じくらい強い別の方法がある。面白いことは実際に幸福を減らすことがある。もし、面白いことと幸福を同じものと見なすと、面白いことの反対や、痛みのあることを不幸と見なすことになる。しかし、痛みのない幸福はあり得ない。出きる限り面白いことによって、痛みを避ける日常の試みは、幸福を不可能なものにする。これは次の章で述べる。 適度な面白いことの使用 面白いことの大切さ 面白いことを避けている人生は、面白いことに専念するのと同様だ。幸福をもたらしそうにない。大方の見方のように、中庸が幸福への道だ。 面白い事と幸福の法則を理解する良い方法は、食べ物とスパイスの例えだ。食べ物は人生の基本的に必要なものを表し、スパイスは面白いことだ。スパイスだけでは、生きられない。スパイスはうまさで、食べ物は生きるための栄養源だ。しかし、スパイスなしの食べ物は、喜びのない食事のようだ。同様に、面白いことだけで、生きることはできない。しかし、単に生活必需品だけでは、人生はつまらない。 こうなると、面白いことは、とても大切だ。人生は大きなストレスとお決まりばかりだ。それから解放される必要がある。休暇の後は、いろいろな問題をはるかに良く扱う事が出きる。 面白いことの良い例は、強調される必要がある。面白いことが幸福と同じでないということに反対する例と同じくらいに。次のように、様々な人がいる。面白いことばかりを求める快楽主義者(継続的な幸福に至っていない)、面白いことと反対のことをする禁欲生活者、面白がることができない非快楽主義者(快楽主義者の逆)。彼らは心理学的、または、哲学的理由の禁欲主義か、非快楽主義かも知れない。そのような人々は面白いことを罪深いことと考えているのかも知れない。または、本当に深くて意義深い人生に有害であると思っているのかも知れない。 面白いことの用い方 食べ物の比喩を思い浮かべると、面白いことには2つある。――スパイスとデザート。スパイスによって、必要な栄養のある物を楽しめる。(例えば、スパイスによって、淡泊質を美味しいものにする)。また、面白いことの最良の使用法は、必要な事を楽しむようにする事だ。そして、それによってハッピーになることだ。(例えば、仕事、家族を養うこと、勉強すること)。 一方、デザートは、それだけでも食べられる。面白いことは、ある部分でスパイスと似ているし、ある部分ではデザートに似ている。しかし、このようなことには大切な行動は伴っていない。ただ、面白いだけなのだ。たまには、有意義な行動を伴わない面白いことも良いが、面白いだけの人生は、デザートだけの食事のように、お腹一杯にならない。 このように、面白いことを比較的意味のない娯楽(デザート)に頼るのをやめ、大切なことを出きるだけ面白くするようにすべきだ(栄養にスパイスを加えるように)。例えば、私は度々、書くことは難しくて骨の折れることだと思う。そのときは、それを出きる限り面白い物にしようとする。手書きで物を書くとき、異なった万年質と、異なった色のインクを使う。パソコンで書くときは、定期的にキーボードを変え、フォントも変える。そして余裕が持てるように最も鮮明でカラフルなモニターを使う。 実際、人生の全活動の中に、面白さを取り入れることは出きる。それは面白いことの最も大切なことでもある。もしあなたが面白がりながら際だったことするとしたら、―――家族をやしなう、仕事で努力する、ボランティア―――あなたは、本当にハッピーになる。 そのとき、デザート――面白いことだけの活動――の時間と必要もある。趣味から休暇へ、スポーツへ。可能性は無限だ(時々、不幸になるが)。 ここでは、若い読者に特に推奨したい。彼らは、素晴らしい幸福を探しているだろう。ただ面白いことだけに休暇を楽しみたい事は、よく分かる。私は面白く休暇を過ごしてきたことを幸運だったと思っている。一般の若者のように、「太陽の下での面白いこと」で、私には、2者択一があった。休暇は面白いだけでなく、個人の成長になる。しかし、私の友人の多くはビーチかホテルのプールで太陽の下で横になって休暇を過ごしていた。私は普通、同じ金額の金で、外国へ旅行することで過ごした。(不運にも一人で。誰も、例えばブルガリアへ私と一緒に行きたがらなかった)。私は友人の何人かと同じくらい面白くはなかったかも知れない。しかし、一人旅行は面白かったし、それによって、長続きする幸福がもたらされた。私は、今までやった事を高めるために70カ国以上は旅行した。 まとめ 面白いことについての基本的な理解は、誰かの人生の最も自由で強力な発見だ。それは、私たちの時間を自由にする。―――今、私たちは、自分をハッピーにしない面白いことに時間を費やすことはできない。―――多分、私たちは、ハッピーになるために高価なものを買う必要はない。それによって嫉妬から解放される―――今、次のことを明らかにする。私たちが考える人々はハッピーだ。その人には、面白い事がいっぱいあるように見える人はいない。 さしあたり、わかっていることは、面白いこと自体は幸福をもたらさない。私たちは、自分の人生を違ったものにし始めている。この事を実現すれは、人生は変化する。 第12章 恐れと痛みを避けること このように、面白いことと幸福の同一視は、多くのマイナスの結果をもたらす。その最悪な結果の一つは、もし幸福になりたければ、痛みは避けるべきだ、という信念を強化してしまうことだ。結果、面白いことが幸福を導くのならば、痛みは不幸を導くに違いないと。 全くの真実だが、幸福を導く物は全て痛みを伴う。一方、広く認められていることだが、2つの例を引用すると、仕事での成功、スポーツでの成功では、痛みを伴う。(例えば、激しい努力、自己訓練、喜びを先延ばしすること)、幸福における成功はほとんど痛みと結びつかない。 結果として、多くの人々はより深い幸福が得られる事を避けようとする。例えば、結婚、子供、知的な追求へのチャレンジ、宗教的な束縛、ボランティア。彼らは、痛みを恐れ、必然的に痛みを伴う。幸福をもたらさない「面白い」事にもっと時間を費やすことになる。テレビを見るような。 1000年前、賛美歌の作者が言ったように「涙を撒く人は喜びを刈り取るだろう」。多くの人は、しかし、信じている。涙なしで、種を撒いて刈り取る事が出きると。 40歳の独身者に、何故独身なのか聞いてみると良い。デートが満足の行くものでないこと(そして幸福でないこと)を認める人であっても良い。彼は、次のように答えるだろう。永久の束縛はイヤだ。男にとって、全くの苦痛だ。差し当たって、独身生活が面白く刺激的であるとしても、この課で学んだことに従うと、次の答えは、結婚した男だ。どちらが幸福で、健康で、長生きか? 同様に子供を持たないことを選んだカップルは子供を持つことを選んだカップルよりももっと、苦痛のない人生だ。しかし子供を持つことからくる幸福はない。(この事は25章で詳細に議論する)。 多くの人はこういう墓碑銘を望んでいるようだ。「私はできるだけ苦痛のない人生を過ごした」。しかし、人の一生の目的は苦痛を避けることではない。それは動物の一生だ。―――しかし動物は幸福を知っているはずがない。 「生きるという事は苦しみに耐える事だ」とドストエフスキーは書いている。もしロシアの大小説家が、生きることは苦痛だけを意味していたとしたら、彼はあまりにも悲観論者だったことになる。しかし彼が意味していることが、生きる事と経験は、苦痛に耐えることが一杯あるということであったなら、彼は全く正しい。 私の世代で、幸福ではない人。そのうち、少なくない人の理由1つは、こうだ。彼らは苦痛のない人生は可能だと思っていることだ。彼らの両親の多くは子供を苦痛や挫折から守るため一生懸命勤めた。そして知らず知らず、子供たちに教えた。痛みを避けることは幸福にとってとても大切だと。苦痛と如何につきあうかは教えなかった。 選択権はあなたにある。できるだけ苦痛のない人生を望むか、できるだけ充実した人生を望むか? 2つは互いに排他的だ。「苦痛のないことに得ることはない」は美しいボディーをつくるときだけの真実ではない。素晴らしい人生を得るときも真実なのだ。 第13章 期待 私は大学で宗教の比較を学んだ時、 仏教徒は人生で長続きする深い効力を持つように教えていることが分かった。つまり人生の苦痛は満たされない欲望や期待から来ていると。この考えの根本は、仏教は欲望と期待を取り去ることを目的としている。 私は仏教の目的の初めの部分は受け入れることができなかった。―――欲望を取り除くと言うこと。個人と社会にとって、欲望を取り除こうとすることは、払いたくない金を払うことになることがある。例えば、健康に対する欲望なしで、病気のためのワクチンと医療技術を見つける仕事をする人はいない。これは一つの理由だ。西洋社会では、宗教や伝統でも、欲望は受け入れられている。これは現代の医療行為の基になっている。中国では医療的な芸術が磨かれている。それはまた、また、相続人にも欲望を受け入れさせる伝統でもある。 もちろん、欲望の多くは健康的ではなく、マイナスの結果になる。しかし、欲望は素晴らしい人生(道徳的で幸福な)には不可欠だ。それが幸福に反対するように働きがちだとしてもだ。 しかし期待は、別の問題だ。ここで仏教徒が教えていることは、普遍的で大切なことだ。もし私たちが、期待を何かが起こること思っているなら、当然、良い物を手に入れても良い。または、欲しがる資格があると感じても良い。そのとき、欲望は不幸を招く。必要のない苦痛が生じる。そして幸福の大切な源――感謝――を傷つける。 欲望を排除することは、ほとんどの人にとって不可能か、あるいは望まれることではない。しかし、期待を最小にすることは現実的で、大いに望まれることだ。一般に、期待は不幸を招く。 健康に対する期待について考えてみよう。ほとんどの人にとって、健康が幸福である時は、健康になりたいと思っていないときだ。そして自分が健康であることがわかった時だ。自分の体に新しい瘤が発見されたと想像してみよう。あなたは医者へ行く。そして言われる。疑わしいので、手術かもしれないと。一週間後、結果は、瘤が良性だと分かる。その日はあなたの人生で最も幸福な一日になるだろう。 これは注目すべきだ。何故なら、あなたの健康は、瘤が見つかる前と瘤が良性だとわかった最高に幸福な日とほとんど変わっていない。あなたの健康は何も変化していない。しかし、今ではあなたは、心から幸福を感じている。なぜ? この日、あなたは、健康になりたいと思わなくなったからだ。 私たちは健康になることを期待すべきでないと言うことか? 答えはイエスだ。私たちは健康になることを望み、健康になるよう勤めることが出きる。また、そうすべきだ。 しかし、現実に、私たちは毎朝、起きる。そして健康であって、ハッピーになるべきだ。瘤が良性だと診断された素晴らしいニュースを受けた時のように。 2つ目の例。愛している人が死んだとき、苦痛の中で最大の部分は、人の死より、満たされない期待によるものだ。―――すなわち、その人がもっと長生きして欲しいという期待。私たちが自分の両親をどれだけ愛しているかは問題ではない。私たちは親が90歳で死ぬときよりも比較的若い時に死ぬ方が、大きな苦痛であることを経験する。私たちは深く愛していないことに気づく。彼らが何歳で死ぬかは問題ではない。 同じ理由がある―――異なる期待―――今世紀、子供が1歳になる前に死ぬことが度々あった。多くの親は、子供の早い死に、今の親ほど悲しまなかった。前の世代の親は、今日の親のように、子供が幼少期を過ぎるまで生きることを期待していなかった。ここでもまた、不幸になる期待がある。 3つ目の例。私たちは仕事につきたいと思っている時も、思っていない時も、不幸になる。これは何を意味するか、私たちは仕事につくため、面接に行くとき、仕事に就くことを期待すべきでないということか? イエスだ。しかし、そのような態度は、職に就くことのプロのアドバイスと矛盾していないか? また、イエスだ。 私個人について話そう。私の最も大きな目的は、自分の価値とアイデアできるだけ多くの人に発信することであった。そして32歳の時、ひどく興奮してアメリカで最も成功しているトークラジオ局の一つである、ロサンゼルスのKABCでトークショーをやる仕事を見つけようとした。私はまだ、局に行くときの態度を思い出せる。私は信じていた。自分が仕事をするに値すると。その仕事が欲しかった。そして自分が雇用されるように説明する能力があると、強い自信があった。しかし、その仕事に就くことは期待していなかった。 なぜか? 私は自分の運命を十分にコントロールしていないことが分かっていた。例えば、人生での運の役割―――試験の夜、喉頭炎になったら? 番組ディレクターの甥もその仕事を申し込んでいたら? その夜、交通事故にあったら? 仕事の成功は、期待される勝利を確実にすることだと信じる人にとって、この態度は自己敗北に聞こえるかも知れない。しかし、このケースは違う。私はどんな候補者にも負けないくらいその仕事を欲しがっていた。しかし、どんな候補者にも負けないくらい自信があるかどうかは疑っていた。しかし、その地位のために仕事を得ようと考えている候補者とは違っていて、私は仕事を得られないことからくる不幸を差し控えることにした。その上、私は職を得たとき、感謝がとても大きいことを経験した。なぜなら、そのような期待を持っていなかったからだ。たしかに仕事を期待したときより、感謝は大きかった。 ほとんどの場合、期待は幸福にとって不必要な障害だ。期待が満たされない時は必要のない苦痛を伴う。満たされた時は、幸福の最も重要な要素である感謝が小さくなる。 期待は幸福を小さくする。 期待が満足される時―――満足されない時 期待が満足される時、私たちは失望して苦痛に耐える。期待が大きくなれば、苦痛も大きくなる―――その上、不必要な苦痛。 あなたに適した仕事を期待する話にもどろう。私たちは度々仕事を得たいと思うようアドバイスされる。それによって、仕事を得るチャンスは、拡大するだろう。私達は何時も、仕事、地位、昇給、他の高度な目的を勝ち取った人から聞く。これらを勝ち取った人が「いつも思っていた」ことは、自分が欲しいものは何かという事。そして、このことや期待は成功への道具だということだ。 この態度の問題点は、仕事を得たいと思っているが、まだ得ていない250人の候補者からは、聞かないことだ。この人々が不必要に耐えている苦痛はいか程だろう。なぜなら、彼らは仕事を得たいと思っていたが、まだ得ていない。私たちは度々、最新のハリウッドスターが次のように言うのを耳にする。彼らが「いつも思っていた」事は、スターになりたいという事だ。しかし、メディアはロサンゼルスのレストランを尋ねて、無数のウエイターやウエイトレスにインタビューしたりしない。彼らは、また、自分たちがスターになることは、「いつも思っていた」(テーブルで待つことはもちろん、生活のための完全に立派なやり方だ。しかしウエイターになることは、ここでは要点ではない。要点は、こうだ。つまり、圧倒的大多数の期待している個人は夢を実現することはない―――勝利者はほんの極小さなパーセンテージの人だけなのだ) 一握りの人にとって、仕事を得ようと思うこと、または売り込みをしようと思うことは時々、助けになる。しかし、期待はたいてい、いつも幸福を破壊する。期待を持つことは250人または10、000人に一人の勝者に作用する。しかし、249人または9999人の勝てなかった人にとっては大きな不幸がかかる。多くの人のため―――そして私たちの全ては時々そのような人々の間になる。―――私が書いていることは、期待について警告していることだ。 一方、明白なことは、期待が成就しない時は、不幸が増加するということだ。そして、ほとんど明らかでないことは、期待が成就したときも同じくらい不幸が増加すると言うことだ。何故かを理解するため、私たちは初めに人の幸福の最も大切な要素について確認しなければならない。 幸福へのカギとなる感謝を、期待はむしばんでいる その通り。「幸福の秘密」はある。―――それは、感謝すること。幸福な人は感謝している。感謝しない人は幸福にはなれない。不幸は人々に不平を言わせる、と私たちは考えがちだ。しかし、より正確に言うと、不平を言うことが人々を不幸にしているのだ。感謝する人になりなさい。そうすれば、もっと幸福になれる。 感謝することは、幸福へのキー(答え)だから、感謝が減ることで、幸福も減る。そして、感謝を減らすもので、最も大きいものは、期待することだ。期待と感謝の間には、逆の関係がある。期待が大きくなる程、あなたは、感謝しなくなる。期待するものがある時は、それを得ても感謝しないだろう。あなたは、明日、健康に目覚めることを期待している場合、自分の健康に感謝しそうにない。一方、もしあなたが明日、健康に目覚めることを期待しない場合、もし起きられれば、本当に感謝するだろう。私たちのほとんどは、失う恐れがあった後か、実際に失った時しか、持っていることに感謝しない。―――何故なら、私たちは、もはやそれを持っていることを期待していないからだ。 感謝、その最も大切な幸福の要素は、主として、期待していないものを受け取る事にかかっている。それは何故か、例えば、私たちが子供に期待する分だけ与えるとき、私たちは実際に彼らの幸福になる能力を奪っている。―――なぜなら、彼らはだんだん感謝しなくなる。これは、子供にいつも「ありがとう」と言うように教えることがどれほど大切かという理由だ。―――これは、ただ単に上品なことだからと言うことではない。この言葉を発することは、人に感謝を教え込ませるからでもある。 これは多くの理由の一つだが、正しく信仰されるとき、幸福にとって宗教は大切だ。 ―――宗教は、通常、感謝する事を教えている。例えば、通常、食事の前に神に感謝する人は、自分自信に感謝することを教え込んでいる。非宗教的な家族は食事毎に感謝を捧げることができるだろうか? この理論では、イエスだ。家族のメンバーは頭を垂れ、彼らの食べ物を育て、収穫した農民に、そして市場へ運んだ運送業者やスーパーマーケットに感謝できる。しかし、今までそんな家族は聞いたことがない。 クリスチャンは、例えば、食事や友人と集まった時、感謝を捧げる。感謝の言葉を述べることで、ある程度の感謝が引き出されることは疑いない。別の例がある。ユダヤ教には、自分の体に対する祝福もある。この祝福は、今日まで多くの信仰心のあるユダヤ人によって、風呂からでるときにも捧げられてきた。その時の期待と感謝は次の通りだ。 「祝福されるのは、神であるあなた、世界の支配者、知的な人を創造し、心霊な穴と空間をつくった。前から知られていたことは、もし穴と空間のうち、一つでも閉じているべき時に開いているとしたら、または、開いているべき時に閉じているとしたら、私たちは存在できない。全ての人類を癒し、疑いのない神であるあなたに祝福を」。 風呂へ行くのにこんな大げさな感謝を捧げる人は、ほとんどいない。しかし穴が開いた人は、それらが閉じているべき時、または閉じているとき、開いているべき時、普通は感謝をもって風呂にはいったりする。感謝して、休息は主なイベントのために取っておくものと考えている。そのような人にとって、感謝する人にとって、バスルームで祈りを暗唱する事によって、バスルームへの小旅行は、感謝と幸福を引き出す。 全く期待すべきでないのか? どこまで期待すべきでないのか? 私たちは全く期待すべきでないのか? 明日、健康に目覚めることは、期待すべきでないのか? 飛行機が目的地へ安全に着くことは? 子供が親から愛されることは? これらの質問にそれぞれ答えても良い。しかし初めに、前に述べた大切なことがある。期待は次のことを当然意味している。起こるであろうこと。実際に必然的な何かに関心を持つこと。――例として、明日太陽が昇ることのような。そのような将来についての確実性は、人の人生ではなく、自然の生き物のある場所においてのみ可能だ。このように、太陽が昇っても私の幸運ではない。何故なら、地球の自転は不変の原理に支配されている。しかし、私が愛している人が明日健康に目覚める時は、幸運だ。 同時に、期待することを止めることは、論理を捨てることとは違う。証拠のよりどころとして、私が次のどちらだと考えているか、尋ねられたとしよう。私と愛している人が重大な病気もなく、明日目覚めるだろうと言う場合。答えはイエス(期待すべきでない)だ。私は、明日、起きた時、ガンになっている確率が50―50だとは理性的には思っていない。しかし、明日、太陽が昇ることを当然のことと思っているように、明日も健康だということを当然のこととは、私には思えない。いつか健康に目覚めない日がくる。しかし、太陽は間違いなくその日も昇る。 従って、私は飛行機に乗るとき、目的地に安全に着く方に賭けるだろう。統計的には。私は飛行機に乗る時、安全に着くとは考えない。しかし、安全に着くことは、太陽が昇るのと違って、必然的なことではない。そして、安全に到着することに賭けていても、到着を信じ切っているわけではない。だから、飛行機が安全に着陸するたびに感謝している。飛行機が安全に着陸する時に拍手する他文化圏の人と、私は同じだ。彼らにとって、安全に着陸することは当然のことではないから感謝するのだ。―――そして安全に着陸したことで感謝しない私たちよりも、彼らはハッピーになっている。 このように、珍しい期待のケースで、質問に対する答え「私たちは完全に期待すべきでないのか?」は、私たちが完全にコントロールしていない場合の答えと言うことになる。期待はすべきではない。そして私たちは人生の大切な事のほとんどを完全にはコントロールしていない。―――私たちの健康と愛している人の健康、どのくらい長生きできるか、望む仕事を得られるかどうか。私たちは、期待する。しかし、他の大切なことのいくつかはコントロールしている。私たちは自分の最善の努力を費やすかどうかはコントロールしている。上品に振る舞っているかどうかはコントロールしている。―――私たちは、道徳的でない意志を持っている。そして与えられた健康と能力、仕事の品質もまた、コントロールしている。 他人への期待に関しても同じ法則が当てはまる。―――他人が完全にコントロールしている事に対して、私たちは期待することが出きる。―――しかし、一つ付け加えると、私たちは自分の期待よりも他人に対する期待を少なくすべきだ。(自分のために、また彼らのために) 子供 一つの共通の例がある。私たちのほとんどが、巨大な期待を抱いている人々がいる。子供たちだ。―――その期待は親と子供の両方にとって有害なことがよくある。自分の子供に大きな希望を抱くべきでない。子供に要求すべきでない(例えば、互いに、または他の子供に宿題を押しつけあう事を意味していない)。そして子供たちが目的を決めるのを助けるべきだ。しかし子供に制限を加えるだけ期待を持つべきでない。これは子供のためだ。―――彼らは独立した人間だ。私たちの延長ではない。そして私たちの目的のためではない―――子供への期待は必要のない落胆をもたらすことが度々ある。 配偶者 私たちが普通に期待を持っている別の例は配偶者だ。この期待は最小限にしてもしすぎることはない。もちろん、いくつかの基本的な道徳的期待は正当性がある。そして実際必要だ。例えば、妻は夫に打たないように期待することはできる。夫は妻に子供たちと逃げないことを期待することは出来る。しかし、期待についての法則は結婚にも、残りの人生にも一般的には当てはまる。実際、期待は簡単に結婚を傷つけることが出きる。なぜなら、配偶者から期待されればされるほど、それを当然のことと思うようになっていくからだ。そして全ての素晴らしい事にたいして感謝しなくなっていく |