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第2部 

幸福への大きな障害と、それに対する方法

 

第6章 人の性質

 

人の性質は、満足しない

 以前、たまたま見つけた新聞広告によって、幸福の問題が具体化した。その広告は、ロサンゼルスのセックスセラピー病院のものだった。読んでみると、「もし性生活に完全に満足していないなら、お電話ください」と。はじめ、広告の意味がわからなかった。しかし、それについて私は考えないではいられなくなった。そして、考え、本当にキラリと光る広告がわかった。もしロサンゼルスで性生活に完全に満足していない人が病院にコンタクトを取るとしたら、みんなが病院にコンタクトを取ることになる。

なぜか? 広告は魔法の言葉「完全に満足」を使っている。何かに完全に満足している人はいるだろうか? これについて説明するため、次の広告を考えてみてほしい。

「今の収入に完全に満足でないなら、お電話ください」

「配偶者に完全に満足でないなら、お電話ください」

「子供に完全に満足でないなら、お電話ください」

「親に完全に満足でないなら、お電話ください」

「歯磨き粉に完全に満足でないなら、お電話ください」

 私たちが完全に満足しているものは、何もない。

 理由は人の性質だ。満足しない―――理由は、幸福への障害の中で、人の性質より大きいものはないからだ。どんなに私たちの天性が望んでいても、――愛、セックス、金、注意、喜び、食べ物、安心――を完全に満足するのに十分な量が提供されるはずはない。

 子供が最初に話す言葉に注意してみて欲しい。多分それは、私の一番下の子と同じだろう。それは「ママ」だ。次は「パパ」で、3番目は「もっと」だった。私たちの強力な衝動を赤ちゃんの言葉は正確に表している。最初に愛、安全、そして次に「もっと」。これが全てだ!

 人の性質は幸福に対する障害としては、最大で唯一のものだ。そして幸福について書いたり話したりされることは、あまりにも少なかった。最初にわかることは、多くの人はあまりに悲観的すぎる。2番目に、幸福の最大の障害を自分の性質とすることは次のことを意味している。つまり、幸福になるためには、自分自身と闘わねばならない。そして、これは多くの人が聞きたくないことだ。3番目に、それによって不幸を外からの圧力のせいにしたいという欲望が少なくなる。

 私たちが困難と闘いたいと思っても思わなくても、幸福の最大の障害は、人の性質だ。そして、それが何故この本が戦いに多くの注意を向けているかという理由だ。より幸福な人生を達成するためには、自分自身と闘わねばならない。

 

 

 

満足しない性質に対処する方法

幸福を決めるのは、人の性質ではなく、頭脳に違いない。

人の性質は満足しない。合理的で賢い頭脳は、幸福になれるかどうかを決める仲裁人であって、性質でないに違いない。結果、私たちは、自分の性質に語りかけなければならない。たとえ、自分が聞いて、反応していても、満足かどうかをきめるのは、恐らく自分の性質ではなくて、心だ。

 第1に、自分で所有している物にたいして、あなたは満足だろうか? 自分の分け前だけで満足できる貧しい人は、そうでない金持ちよりも幸福だろう。

 2番目に、もし自分で所有している物に満足でない場合、この不満によって、不幸になるだろうか? 不幸は不満からくるとは限らない。ある人々は単純に満足を選ばないかもしれない。―――そして必ずしも不幸にはなっていない。ちょうど、私たちが普通、不満かどうかを選択できるように、不満が不幸になるかどうか決めることがある。

 次の考えがよりいいのか、もっと慎重な言い方があるのかは、わからない。―――お話しした方がいいだろう。あなたが満足するか、もっとよくなるか、少なくとも、見事な言い方だ。

 

自分の不満を知ることで、不幸になっていないだろうか? 

 

 私は普通、次の言い方のほうが好きだ。私たちは自分に言い聞かせることができる。「私はそれに満足しなくても幸福になれる。」これによって、次の2つが可能になる。

1.幸福を破壊させないという気持ちを忘れない。

2.不満を減らすために努力する。

不満の分類

不満はどこにでもあるという事に対して、別の方法がある。 不満を2つに分類することだ。―――必要なものと、不必要なものに。

 必要な不満の例は、創造的な人が持っている、仕事の不満だ。これは必要だ。何故かというと、不満によって、創造的な人は仕事を改善しようとする。そのような不満は不幸に至らない。生活を善くする必要はある。

 個人的な範囲で必要な不満の例を出すと、私の妻は、夫婦間のコミュニケーションのレベルに度々、不満を感じている。彼女によると、私たちは、だいたい何時も自分の感情についてもっとオープンで正直になって、一緒にいる時間を増やしたいと。彼女は結婚生活では幸福だ。しかしコミュニケーションのレベルに対する彼女の不満によって、もっと親密になっている。そして、結婚生活はもっと良くなっている。(コミュニケーションのレベルにだいたい満足していた彼女の夫でさえ、このことがわかる)

 不必要な不満は、次のどちらかだ。重要でないか、重要であっても変えることができないか。重要でない不満の例を用いると、私はいつも、ステレオの品質にはあまり満足していない。そして例え実際にそれが、どんなに良くても、たいしたことはない。それはわかっている。しかし、例え悪いステレオを持っているにしても、低品質のステレオが幸福を減らすと思えるほど、私はバカじゃない。(一方で、すごいステレオによって幸福は増える。何故なら、私はいつも、できる限り幸福を増やそうとするからだ)。あなたを不幸にしない不満への鍵は、不満が重要(例えば、夫婦間の親密度)か、そうでないかを知ることだ。一度そうすれば、あなたは重要でない事に対する不満を維持しならが、それに対して笑えるようにすらなれる。―――もっと良いステレオを探すことは、私にとって、楽しくて仕方がない。

 不必要な不満の2つ目は変えることができない事に対するものだ。―――変えることができない事が重要だとしても。それには大きな力がいる。変えることができない不満は、結局、不必要だということを認識できる賢さがいる。あなたの不満は完全に正当なものかもしれない。しかし、その問題を変えることができなければ、不幸を増やしただけになってしまう。良く知られた12の段階で祈ることは最善をつかむ「神は私が次のことを平和に受け入れることを認める。変えることができないこと。自分でできることを変える勇気、違いを知る賢さ」。 あなたは自分で変えることができないことを平和的に受け入れる時、不満が本当は必要でないということを見分けるだろう。

 

 

何故、私たちは、満足しない性質を持っているのか?

 もし、完全に、人の性質が強欲で、幸福に対する最大の障害だとしたら、何故この性質は創られたのか? それは、自然、または、神がむしろ悪意のある罠を私たちにしかけたかのようだ。

 私たちに罠を仕掛けたのでなかった場合、実際に神は、人の性質は満足できないようにしたということになる。もし人の性質が十分満足されるものであったなら、この世界でも、個人でも、何も成し遂げる動機がなかっただろう。病気に対する不満によって、治療できるようになった。がまんに対する不満によって革命が起こった。昔の芸術的表現に対する不満は、芸術の素晴らしい作品が生まれる動機になった。そして、もちろん社会の道徳状態に対する不満から、道徳の改善があった。奴隷制度の廃止から、民主主義が生まれた。個人的なことでは、人の不満は、多分、次のような改善を促す。感情的な結びつきがよくなる。個人の道徳がよくなる。健康がよくなる。

実際、良くなる物は何でも昔の不満の結果なのだ。

 不満を与えてくれた神に感謝! それは優れたことで、人の貴い特徴だ。動物が不満を持っていると思えるような証拠はない。動物にエサ、住まい、安全をやってみなさい。彼らは満足してしまうだろう。

人の場合はどうだろう。次の瞬間に、もっと欲しがる。そして満足しなくなる。人は完全に満足することができない。

 モダンダンスの大家マルタ グラハム。彼女は最もよい必要な不満を次のように表現している。「満足している芸術家はいない。いつも満足することはない。奇妙で非凡な不満があるだけだ。神から恵まれた不安により、私たちは前進し、もっと元気になる。」 不満を持とう。それによって、不幸になることはない。

 

 

第7章 自分と他人との比較

 

私たちは、どうやって自分が幸福かどうかを知るのだろう? この質問に答えるのは簡単に見える。―――私たちが幸福だと感じるときは幸福だ。しかし一人で幸福のレベルを決めたとしたら、次のようになる。私たちは1時に幸福だった。2時半は幸福ではなかった。3時半、また幸福になった。日中を通してだいたいそういう感じになる。

 しかし、一人の感覚では、自分が幸福かどうかを決めることができない。それを決めるのは何か? 答えは、他人と自分を比較することだ。―――これは、大多数の人と自分を比較する分には、問題ない。しかし彼らはそうはしない。ほとんどの人は非常にまれな人――自分より幸福と思える人――と比較してしまう。

 例えば、自分の収入を自分より収入の低い人と比較するだろうか? 私は次のことを読んだことがある。映画俳優が全ての作品で100万ドル稼いでいだとしても、ハッピーにはならない。なぜかというと、アーノルド シュワルツネッガーは数100万ドル稼ぐからだ。この俳優がもし自分のサラリーを高校時代のクラスメートと比較していたら、彼は、すごい幸運に頭がおかしくなるくらいハッピーになれただろう。しかし、そうはしないで、彼は自分より収入が多い、世界でほとんどいない俳優と比較してしまった。

フォーブス誌がアメリカの400人の富豪をリストアップするとき、私の貴くない部分は毎年毎年、邪悪な喜びに満たされる。富豪はその年を通して印象に残り、人々は暮らしているのではないかと思う。全世界では、結果は次のようになる―――その数はわずかに268人! 私が思うに、フォーブスが発行されると、多くの富豪は不幸になってしまうだろう。――その雑誌によって、世界中には、彼らより金持ちが沢山いることに気づく。もちろん、誰がよりハッピーかを比較するような評価はしない。――または、同様に、誰が最も稼いだかで富を比較にてみても、―――それは筋違いだ。富のランキングがどうであろうと、彼らは世界中で極めて希な人々なのである。

 あなたは、フォーブスのリストを数えないようにすべきだ。それによって、よりハッピーな人と自分を比較する事に耐えなければならないからだ。私たちのほとんどは、そうしてしまっている。例えば、多くの人々は映画スターのような有名人の生活と自分の生活を比較する。―――そして、彼らが幸福だと考えて羨む。

 これが普通の習慣になってしまうと、大きな間違いになる。 映画スターの名声が何かに書かれる時、彼らの中でハッピーだという人がほとんどいないということは、どのくらい書かれるか? 本当にこれらの名声の多くは、平均的な読者の生活よりもっと不幸な生活を送っているのだ。まだ、読者のほとんどは重要な結果を引き出していない。―――名声、幸運、グラマー(女性の)を兼ね備えた人々が幸福への階段をのぼっているわけではない。そのかわり、ほとんどの読者は次のように結論づける。自伝の著者は特にねばり強い人生を送っている。そして、そのグラマーが不幸な自伝を書くまでは、読者は、自分の生活と彼女の生活を比べる。

 自分よりハッピーだと思える人と自分を比較することは、金持ちや有名人との比較だけとは限らない。人々は自分よりハッピーだと思える人なら、誰でも比較する。それは、従兄弟、知り合い、また、よくあることだが、かろうじて知っている誰か、に違いない。

    

実際、私たちが比較している人について、知っていることは少ない。想像上の幸福はもっとドラマチックで違ったものだ。哲学者で、家庭をつくった、ハレン テルシュキンの無類の言葉で次のようなのがある。彼女は、私の友人で作家のジョセフ テルシュキンの母だ。「私が知っている中で幸福な人は一人だけ。私が良く知らない人よ。」

 この見方は、幸福への障害に対する一行の解毒剤だ。幸福をマイナスに比較する人々は、苦痛と、ほとんど、または全く知られていない悪魔に悩まされる。もし、誰もがこのことを知っていたら、幸福を他人と比較するのは止めていただろう。自分が良く知っている人について考えてみて欲しい。ハレン テルシュキンのコメントが正しいことが解るだろう。あなたのように、自分がよく知っている人がどれだけ不幸か知っている人は大概、経験を積んできている。そして、あなたが良く知っている人に関してでさえ、中に潜んでいる悪魔については、あなたは知る由もない。――その悪魔とは、感情的、精神的、経済的、性的、酒との関係、ドラッグ―――彼らは闘わねばならない。

 私は去年のブックツアー中、ラジオトークショーをやっている若者と出会った。彼は特に成功、健康、幸福について私を攻撃してきた。彼は、美しい妻(写真がスタジオにあった)と小さい娘を愛していると語った。そして、大きな町でトークショーをやることに喜びを感じていると。彼はその町を気に入って、住んでいる。その中に不自然に聞こえるものは何もない。私は、つい、彼が全て順調にいっていると思ってしまった。希な運命の持ち主なのだと思ってしまった。私たちはコンピューターの機械的な愛について語り始めた。議論はインターネットへと移った。彼はその存在を歓迎していた。そして、私に語った。何故、彼が複合硬化症(希な病気)の情報を沢山探しているのか? ―――このひどい病気が彼の若い妻を悩ませているのだった。

 私はバカだった。自分がみつけた法則を破って、彼の人生に不幸など、ほとんどないと思ってしまった。

 日常生活で、私たちのほとんどは問題がないように振る舞っている。「元気?」と尋ねると、「快調よ」とか、「絶好調」と機械的に答えるのが普通だ。(誇張した言い方はアメリカでは珍しくない)。「元気?(How are you?)」と聞いて、頭を悩すような問題を聞きたい人はいない。(ある古いウィットに次のようなのがある。「元気?」と尋ねられた時、正直に答える人は病気のようなものだ)。しかし、私たちは、ハッピーな顔をした人には、誰でも金を払う。―――そのハッピーな顔に、素晴らしい人生だと私たちは思ってしまう。

 次のことは、他人が幸福にみせかけている結果に違いないと思う。つまり、私たちは写真を撮るとき、何時もニコニコし始める。古い写真を見ると、カメラに微笑んでいない人がいかに少ないかわかる。明らかに、ほとんど人は自分に背いている。どの写真でも幸福そうに見せているに違いない。人生の苦難に、彼らは多分バカみたいに「3秒間微笑む」

 ハッピーな顔のマイナスの効果は、私が度々想像するシーンによって描かれる。2組のカップルがレストランで食事をするため家を出る。カップルAは食事に行く途中、大喧嘩をする。カップルBも同様に大喧嘩をする。しかし2組のカップルがレストランに着くとき、彼らはみんな全てがうまくいっているように振る舞う。

 「ハーイ、2人でどうしてたの?」1組がもう1組に聞く。

 「ウン。絶好調さ! 君たちは?」と返す。

 食事中、それぞれのカップルは喧嘩については何も言わない。家に帰る途中、カップルAはお互いに言う。「カップルBを見た?――なんて仲が良くて幸せそうなんでしょう! どうして私たちは、ああいうふうになれないの?」。一方、カップルBも車の中で言う「カップルAをみた? ―――以下同じ――――」

  それは、カップルの喧嘩からくる不幸だけでは終わらない。彼らは別のカップルと比較することによって、今はもっと不幸になっている! 彼らが耐えていることは「複合不幸」と呼ぶことができる。―――愉快なことの中に愉快なことがあることを「複合愉快」と言えるように、「複合不幸」は不幸に不幸が重なることだ。そのように他人と自分を比較することは危険なことなのだ。

 

 

 親密な関係の重要性

 

 この2組のカップルの不幸は、他のカップルと無益に比較することによって悪化したというだけではない。喧嘩によって、もともとあった不幸が減るはずだったのだ。どのように?

 2組のカップルはお互いハッピーなふりをせずに、お互いに発散していたら、レストランから出るときは、もう少しハッピーになっていたはずだ。全てのカップルがしなければいけないことは次のような答えだ。「子供は元気?」 「私たちは問題ない。だけど、息子と、昨日の夜、喧嘩しちゃってさ。ここにくる前」 このカップルが口をつぐんでももう一方のカップルは「あなた達も? 私達もよ!」という答えが返ってくる可能性が高くなる。

 そのとき、何もなくて全てがうまくいっているように振る舞う代わりに、フリーになり、一方のカップルに喧嘩について本当のことを喜んで言える。そして喧嘩が夫婦間の議論の普通の範囲内であるなら、発散して、実際、全てのカップルが喧嘩していることが解る。度々同じ事で、お互いがより親密になる。結果、もし結婚している人々が他の人々に彼らの結婚生活について話せば、多くの夫婦間の悲嘆は避けられるだろう。ほとんどのケースでは、次のようなことを知る。実際に全ての結婚は問題を分かち合い、それらの多くは普遍性があり、彼らについて話し―ジョークでも―、夫婦間のストレスを本当に減らすことにつながる。

 手短に言うと、いつもハッピーだと思われている人達と自分たちを比較することを止めること以外に、私たちの幸福が増える余地はない。

 

 

第8章 イメージ(想像すること)

 

 他人と自分たちを比較することは自己破壊のようなものだ。同様に、比較することで、幸福への障害を減らせるものがある。――イメージだ。

 子供の時代から、私たちは、どのように生きるべきか想像してきた。―――どのように成功するか、有名になるか、金持ちになるか。または配偶者のイメージ―――妻がどのくらい魅力的か、金持ちか、夫を愛しているか。または子供のイメージ―――どのくらいハッピーで愛しているか。もちろん、この3つ以外にもいろいろ想像していただろう。

 

 不幸の公式 U=I-R

 イメージは強力だ。現実とイメージの差から、不幸をほぼ測定できるからだ。数学用語で、人の不幸を測定する公式は U=I-R だ。大半の不幸Uは、イメージIから現実Rを引いたものに等しい。

 例えば、イメージは、男性の「中年の危機」の大本になっている。年輩の男性は次のことを実感している。彼らが職業的に下降線をたどっている事。その年で達成する事をイメージできることは少なくなっている事。この2つの差が「危機」になっている。

 イメージの問題への答えは公式の中にある。不幸がイメージと現実の差だとしたら、次のことで、減らせる。イメージを落とし、現実を受け入れる。イメージをそのままにして、現実を変える。

 どちらがいいのか一般的なことは言えない。現実を変えなければいけない時もある。現実は変えることはできないか、変える必要がなく、受け入れるだけという時もある。少なくとも平和になるはずだ。

 個人の例が役に立つかもしれない。私が大きくなるときの記憶で最良のものは、家族が離婚(または離ればなれ)しなかったことだ。私は成長し、人生で堅く結びついていると信じて結婚した。この家庭へのイメージ―――妻は私を愛し、私は彼女を愛し、4人の子供は、夕食の席で高尚な話題について語り合うというイメージ―――は吹き飛んでしまった。

 年を経て、このイメージはより強くなった。結婚して5年、37歳の時、私は離婚した。―――3歳の子供がいた。もはや私の個人的な世界は陥落した。わたしの想像は全て破壊された。―――完全なカップル、永遠の愛、4人の子供たち。離婚した男として、敗北者だった。なお、その上、4人の幸福な子供達を持つかわりに、1人の子供と恐れている人

に、幸福ではなく不幸を与えた。

面白いことに女性は「中年の危機」になるとは滅多に聞かない。これには2つの基本的な理由がある。1つは、一般的に、女性は、男性ほど、自分のアイデンティティーを築かない。―――ほとんどの女性は何かの代表になれないことで落ち込まない。もう一つの理由は、女性は生涯を通じて危機になりにくい。これは危機的という意味ではない。女性は、現実に合わせる性質を多く授かっている。女性は生涯を通じて感情的に困らない、男性は中年になるまで困難に直面しない傾向がある。

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 再婚して2年後、私は妻のフランにうち明けた。家族の状況について不幸な気持ちを弱めることができないと。彼女は尋ねた。家族(フラン、娘、息子)のどこが悪いのか? 実は、――私は語った――息子と一緒にいる骨折りから30分だけ解放されれば、家庭生活は素晴らしくなる。「じゃあ、何故そうしなかったの」と彼女は言った。 

 その通りにした。しかし不幸な気持ちを減らせたのは、すごく価値のあることを受け入れることはできないというイメージを追い払った後だった。―――私の家族。ここに書いたように2人の子供は幸福に、立派に成長した。そして3番目の子供ができた。私たちは皆、運がよかった―――しかし、もし私がイメージを捨てていなかったら、――素敵で本当にハッピーな家族に感謝する事はできなかった。

 もっとよく知るべきだった。私は、人をより早く不幸にしてしまうイメージの力を実際に見た。20歳代の時、35歳の正当派ユダヤ教徒の独身者に会った。彼の独身の身分は私を惑わせた。例えば彼の年で宗教的な独身は珍しい―――全ての信徒、信仰に従うものは、結婚を支持し、早くに性的な独身から結婚へと至る。他方、彼はいかに孤独か、いかに結婚を切望しているかについて、ひどく不平を言う。

 「だったら、どうして結婚しないの?」私は訊いた。

 「僕は、まだ望ましい女性に会っていない」彼は真剣に答えた。

  私は、その答えから離れさせなかった。

 「(望ましい女性が)どんな人か言えるの?」私は続けた。

 「言えるとも!」彼は断固として答えた。「僕が望んでいる人は―――トーラー(聖書)を学んでいるプレイボーイや、プレイメイト 」

 本当に言ったのだった。トーラー(聖書)を学ぶプレイボーイ誌の折り込みページのイメージには、私も興奮した。しかし、私の20歳代前半でさえ、これは現実主義というよりも滑稽だった。にもかかわらず、この男は自分が孤独であることを認め、そのイメージのため結婚していない。彼がそのイメージを捨てていれば、恐らく素晴らしい妻を見つけているだろう。しかし、彼がそのイメージを捨てていなければ、今も独身であることは間違いない。人がどのくらい偉いか分かるだけ人は、どのくらい幸福かを見失う。彼はイメージが現実になった完璧な幸福だけを待つからだ。

彼と私についてお話しした。それによって、イメージが如何に強力で、潜在的に破壊的かわかる。私の例では、イメージのレベルを落とし、現実を悟った。他の例では、私は、現実を変えた。―――権威はあるが、面白くない仕事を残したときのように―――それを変えた。

 破壊的な力にも関わらず、イメージは建設的な働きをする時もある。―――とくに感情的に破滅した生活で。正しく使われた時、人々を鼓舞し、生活を改善させることがある。ある精神科医が患者について話している。彼(患者)の母は、病的に彼と親密だった。彼に女々しい身なりの服を着せ、甘やかした。彼女が結婚した男は、家から遠いところで働かねばならなかった。そして月に2回、2〜3日家に帰るだけだった。

 彼女の夫が――患者の父――帰宅した時、両親は、ほとんど全ての時間外出して、彼は1日中、映画館に放って置かれた。彼はそこで1日中映画をみていた。精神科医の言葉では、「キャリー グラント、スペンサー トレイシー、ジミー スチュアートで育った」。後に、高校で、彼は他の男の子と違うタイプだった。仲良くなった友人たちは、自分の父親と仲がよかった。彼は人生と映画に良いイメージを持っている友人達にいつも囲まれていた。(今日、不運なことに、映画は男の子のイメージをあまり提供しない。社会は、子供たちに現実の父親像をあまり提供しない)。このイメージの大部分のお陰で、彼は職業的にも、息子に対する父親としても大成功した。

 ためになるイメージと、害になるイメージを見分けることは、必ずしも易しくない。宗教的な信者の現実はハッピーでない。イメージの大部分はよりハッピーな生活を送ることを阻んでいる。(例えば結婚すること)。他方、母に少女のように扱われ、父にほったらかされた若い男にとって、イメージは良い人生のための生命線だ。

 

 

 イメージ(想像すること)は社会を荒廃させることがある

 イメージでもたらされる破壊で最大のものは、社会全体に及ぶ。個人の生活で、完璧なイメージは不幸をよぶ。完璧な社会のイメージは、――ユートピアのイメージ――残酷非道な悪をもたらすことがある。結果、無理やり社会のイメージに合わせるのに社会を変え、20世紀最大の悪につながった。

 イメージと現実を比較することは、時として荒廃と不完全な人生をもたらす。しかし、社会と完璧なイメージを比較する事で、社会に価値をもたらすことがよくある。ユートピアのロシアをイメージした共産主義者は帝国主義社会をメチャクチャに破壊した。しかし彼らがつくった場所は価値のあるものとはほど遠い。ワイマールドイツのひびが入った民主主義と大帝国のイメージを比較したドイツ人は不完全な民主主義をつぶした。世に有名なアウシュビッツを生み出した。今日の中東のある信者は、ひびのはいった社会と、宗教のユートピアのイメージを比較した。そのユートピアは神と信者によって統治される。結果、中東に宗教的な全体主義の国ができた。アメリカ人は、人類史上で最も適正だ。彼らは、社会と次の事を比較した。競争、民族、性差別主義/他の自由、またはイメージされたヒビ、――または牧歌的な過去のイメージ――。これは、非難することと、極端に、また不適正に改正することによって弱まっている。

 一方、よりよい社会のイメージなしで、良い世界への希望はもてない。そして努力する上での案内がなくなる。しかし、イメージは火のようなものだ。適切に取り扱う必要がある。

 

第9章 失われたタイル症候群

 

 人の天性で、幸福を破壊する最も良い方法。それは、美しい場面をみるとき、キズがはいっている部分、なくなった部分をじっと見つめる事だ。(それがどんなに小さくても関係ない)。

 この傾向は、現れやすい。タイル張りの天井を想像してみて欲しい。その天井は、タイルが1枚欠けている。―――あなたは失われたタイルに注目するだろう。結果、天井が美しいほど、失われたタイルに集中する。それは天井の残りの楽しみにも影響する。

 今、完全な形として存在するはずの天井か何かがあるとしよう。欠けている細部に集中することは良いことだ。細部を軽んじる内科医や、1枚のタイルを見落とす建設業者なんか誰も要らない。しかし、物質的に望まれることや、必要なことを、感情面に当てはめたりすると、自己破壊的になってしまう。天井を完璧にすることはできる。しかし人生は完璧にできない。人生では、いつもタイルが欠けている。そして欠けている物ついて想像を巡らす。

 この不幸をつくる傾向を(欠けていることに心を集中させるような)、私は、2つの理由で痛切に感じた。1つめは、頭に毛のない男がうち明けた事だ。「僕が部屋に入るとき、みんな僕の髪を見るんだ」。かわいそうなやつだ。彼が人の近くにいるとき、彼が見るものは、他人の頭なのだ。鏡を見るとき、彼は髪のない頭以外は目に入らない。他人にとって、彼の髪の毛がないことはほとんど意味がない。このことを、彼はあまり気づいていないのだ。    

髪がある人は、普通、頭に注意していない。一部の人は、髪の毛がないことに気づいてさえいない。これを知った彼はショックを受けた。5人の人に会った後、彼らに髪の毛があったかどうか尋ねられれば、私は思い出すのが難しい。

 髪がある人にとって、髪は、幸福にとって大切な事ではない。その男が考えているように。髪がある人が、ない人よりハッピーかどうか調べれば、哲学用語の「知覚表象」が正しいかどうかが確かになる。私はそのような研究があるかどうかは知らない。しかし、髪と幸福の相関関係を疑わしく思っている。―――もしあるとしても、髪を失うことが重要だと感じている人を不幸にするだけの結果だ。

 失われたタイル症候群は至る所にある。体重が重い人は、太った腹と完璧な人ばかり見る。ニキビがある人は、キズのない肌ばかりを見る。妊娠することが困難な女性は妊婦と赤ちゃんばかりを見る。重量超過、ニキビ、はげ、子供がほしい、のいずれでもないとしても、あなたにも失われたタイルがあるだろう。あなたはどんな現実――または単に頭の中だけのこと――にもキズをつけ、幸福を小さくしていることもある。

 2番目の場合は、もう少し前のことだ。私は最初、友人のジョセフ テルシュキンから失われたタイル症候群について学んだ。私達はともに30代の独身で、度々、デートと女性について話していた。私たちが――特に私が――最も多く繰り返したテーマは、女性の性格で1番大切なこと(MITIAW:Most Important Trait in a Woman)を見つけることだった。私はMITIAWを見つけることに取り付かれた。デートの後、決まって私はジョセフに電話した。MITIAWが本当に何なのかを述べるために。あるデートの後、その答えは「個性」だった。別のデートの後、それは「値打ちのある良い事」だった。「ジョセフ」私は確信を持っていった。「今日は、ついに、女性の性格で1番大切なことがわかったよ」。そしてそれが何なのかを告げた。

 ある夜、この数年間のバカバカしい探索の後、ジョセフは私の目を開かせた。私は、MITIAWが何かを話そうとした時、彼は遮った。「デニス」彼は言った。「言わなくてもいいよ。君が言おうとしていることは知ってるよ」

 「何でわかるんだ?」 私は続けた「君は女性についてわかっていないよ、白状するけど」

「構わないよ」彼は答えた。「君が話そうとしているMITIAWは、今夜のデートでは、なかったものだろ。」 

 彼の正しさに当惑してしまった。そして、気づいた。私が何年も宣言してきたMITIAWは、デートした女性に欠けているものばかりだったのだ。私が結婚相手を見つけていないことは、疑う余地もなかった。素晴らしい性格を全部兼ね備えた人はいない。明らかに、全ての女性には、MITIAW(女性の性格で1番大切なこと)が欠けているのだ! MITIAWの女性を見つけたいと真剣に考え、値踏みしている時、私は自然に自己破壊サイクルに入っていた。

 私たちは度々宣言している。私たちが考えていることは、一番大切な性格を持つ人には、欠けていると。私たちが信じること――または、結果は―――子供に欠けていることは、子供の性格で1番大切なことだと言うことだ。配偶者に欠けていることは、夫か妻にとって一番大切なことなのだ。そして更に悪いことに、他の子供たちや配偶者にこの性格を探してしまう。

 言い方を変えると、こうする事によって、どういう事になるか? 言うまでもなく「悲惨」だ。何が欠けているのか、何が一番重要な性格なのかに集中してしまうことは、人の天性だ。自分がやっていることに集中しようとしない場合、欠けたタイルにこだわることを止めない場合、それは幸福への克服できない障害になる。

 

 

何をするのか?

 失われたタイル症候群で効果的な対処をするため、必要なこと。

1.失われたタイル症候群が如何に強力かを知る。

2.失われたタイルが何なのか出きるだけ正確に把握する。これによって、何があなたを困らせているか――少なくともあなたが考えていること――をハッキリと知ることが出きる。

3.このタイルを幸福の中心にしていないかどうかを考える―――または、欲望は満足することがないかどうか。 愚かな例を引用すると、もし失われたタイルが、すごい車だとしたら、あなたは、失われたタイルに苦しんでいるのではないことは保証できる。失われたタイル症候群に苦しんでいるのだ。

 

 

 獲得しなさい。忘れなさい。または置き換えなさい。

 失われたタイルが何なのか、そしてそれを得ることによってあなたは本当にハッピーになるかどうかが分かれば、あなたは3つのうち、1つだけをやるべきだ。 それを獲得すること。忘れること。または違うタイルに置き換えること。もし3つの内のどれもしなければ、失われたタイルはあなたを不幸にする。

 タイルが幸福にとって重大なものでなければ、最適な答えは忘れることだ。人生はあなたが取るに足らないことに困れるように、障害をたくさん与えてくれる。一方で、もしタイルが欠けていることが幸福にとって重大であるなら、もちろん手に入れること。もし、それが不可能であるなら、次善の策は、満足できる別のタイルに置き換えることだ。恐らく実際のタイルと同じくらいに満足できなくても、そうすることだ。もしこれらの選択が両方とも実行できることでなければ、出きることは「忘れること」。そして欠けていない方のタイルに集中することだ。

 獲得すること  2回目の結婚の数年間、私は幸福に結婚生活を送り、2人の子供(娘のアニア--妻の前の結婚の時の子供。そして私の前の結婚の時の子供、デイビッド)を愛していた。そして私の職業生活も順調だった。しかし、人生で何か重要な物が欠けていると強く感じた。子供がもう一人欲しかったのだ。子供をもうひとり持たない理由はない。妻と私は40代半ばだった。私達にはすでに2人の子供がいた。そして旅行、独立、自由を愛した。しかし私はこの失われたタイルを忘れることができなかった。どんなに忘れようと思っても他のことに集中しても、失われたタイルがヌーッと現れてきた。そしてそれは適正なものだった。しかし私たちの子供アーロンが生まれて以来、私はどんな重大なことにも失われたタイルを感じなくなった。

 私は、本当に幸運だった。私は実際に自分の失われたタイルが何であるかわかり、そして見つけることができた。多くの人にとって、これは可能なことではない。このようなケースでは、多くの人は忘れるか、他のことに置き換えるかを選ばねばならない。私のケースでは、子供のタイルを他のタイルに置き換えることは2番目の選択だった。例えば、妻と私はお互い、もっと他のことに集中できた。はじめの2人の子供ともっと多くの時間を過ごし、エネルギーと注意を仕事へむけた。

 忘れる  他の個人の例は2番目の選択を描くことだ。――失われたタイルを忘れることだ。離婚したとき、私の上の子は3歳だった。そして、その子の母と私は共同で物質的な保護をすることに同意した。デイビッドのために働くように見えるようなことを始めてから、11年後、もう十分働いたと思った。しかし程なくして、デイビッドが私の元を去って、彼の母のところへ行くことに苦痛を感じなくなった。毎日デイビッドと一緒にいないことは、私の人生で本当の失われたタイルだった。そして上の例と異なって、手短に言うと、このタイルは見つけることができない事はハッキリしていた。私は、そうして考えるのを止めた。――忘れること――私はデイビッドと一緒にいる間、出きる限り、多くの時間をデイビッドと一緒に過ごさなかったことについて。皮肉にも、デイビッドがずっと私と一緒にいたとした場合よりも、もっと多くの時間、彼と過ごすことを終わりにできた。

 置き換える  全ての人は、意識的に、または無意識的に、失われた物を別の何かに置き換えている。私は、例えば、レオン フライシャーは20世紀の最も偉大なピアニストの一人だと思う。彼のキャリアの早い時期に、彼は不思議な苦悩を背負った。右手がピアノを弾けなくなったのだ。最も偉い精神科医も効き目がなかったので、彼は自分のキャリアを次のことに変えた。教えること、指揮すること、右手のために書かれたピアノ曲を弾くこと。多分、この置き換えはどれも、両手でピアノを弾くように満足できるものではない。しかし、彼は、それらの大家になった。右手が不自由なままで。

 

第10章 幸福を成功と同じだと見なすこと

 

 幸福への障害の中で最も普通なもの。それは、幸福が成功に等しいと思うことだ。この等式は男性を特に苦しめているが、同様に職業を持つ女性をも苦しめるようになっている。

 幸福の等式が間違っていることを表すのに、単純で効果的な方法が2つある。

 1つ目は、あなたが幸福になれる成功のレベルを書いて欲しい。例えば、会社のCEOになること? 今の3倍稼ぐこと? 会社を持つこと? ベストセラー作家になること? 私は次のことが分かった。人は、自分がハッピーになれる成功を書く時、その成功のレベルがどうであっても、幸福のレベルは大して変わらない。

 達成する成功がどうであっても、一度達成してしまえば、すぐにもっと高い成功のレベルを目論む。もし、あなたにとって幸福と成功が同等だとしたら、ハッピーになれるような成功を手にすることはまずできない。幸福になれる成功は、達成できる成功より常に大きい。成功と幸福を同一視することは、フットボールチームがダウンを奪うごとにゴールポストが10ヤードずつバックするようなものだ。――あなたのチームはもっともっと成功するかもしれないが、ゴールポストには届かない。幸福に影響する成功のためには、「僕は今、成功している」(例えば、「僕はゴールポストに達した」)と言えなければならない。あなたは、もちろん、更なる成功を探し続けるだろう。しかし、あなたがハッピーになるのに必要な状態にはならない。

 2番目に、成功と幸福が同じではないということは、大いに成功した人に聞いてみた結果だ。そうすれば彼らが幸福かどうか分かる。私は大成功した多くの人達と話し合ってきた。そして分かった。幸福な人は成功する前から幸福だったのだ。――しかし、その成功は確かに彼らの幸福に加わった。同様に、成功する前から、不幸だった人は今でも不幸なままなのだ。結果、現状では、彼らがスタート地点に立った時より不幸になっている。なぜなら、彼らは、成功が幸福だと思っている。その成功は彼らを幸福にしない。彼らは更なる成功を目指して、更に多くの時間をかける。従って、彼らは、本当にもっとハッピーになれるような事には、多くの時間を費やさない。    

 

 

 どうして成功は重要なの?

 成功が幸福と同じでないという3番目の理由は、なぜ成功を目指すのかということだ。もし成功がとても重要だとしたら、「何故」を見つけることは必須のことだ。

 成功を楽しみたいということには、かなりの理由がある。成功を表す物質的なもの――特に、あなた自身と家族の経済的な安全――を欲しがること自体は健康的なことだ。あなたの努力に価値を見いだすことや成功を欲しがることも健全なことだ。

 しかし、幸福は成功次第だと考えて、幸福を求めているのであれば、不健全だ。また、幸福は貯金の残高が増えることだと認識していても同じだ。幸福には全くつながらない。何故そうしたいのかを見つけるべきだ。成功するだけではハッピーになれないと分かった時のみ、執拗に成功を求めることから解放される。

 「なぜ自分は成功したいのか?」を自分に問いかけると、面白い事が分かるかも知れない。例えば、大成功した人の多くは成功しようとしてきた。何故かというと、彼らは両親から、成功した時だけ、かわいがってもらえたからだ。だから彼らは、かわいがってもらうために成功を目指しているのだ。これは一つの理由だ。ついでに言えば、成功した人を羨むのは馬鹿げている。―――成功の量を緩和できない悪魔に、彼らの多くは駆り立てられているのだ。

 一部の大成功した人にとって、職業上の成功の効果はドラッグのようなものだ。痛みを癒すために、常に増加を目指している(その結果はワーカホリックという用語が当てはまる)。長期にわたる気晴らしはなさそうだ。不可能なときは悲惨になる。賞賛(拍手喝采)のために生きている俳優は、賞賛がない時、しなびてしまう。

 

 

 幸福における仕事の役割

 仕事の成功は幸福とは言えない。しかし、仕事は主な幸福源だ。――もし仕事が面白くて意義のあるものであれば。

 大成功の仕事で、この二つの条件が満足されないことがよくある。金をつくるため、成功するため、初めて仕事に従事する時、その仕事が楽しくて有意義なことは滅多にない。お給料のないボランティアをする人は、億万長者よりも多くの幸福をその仕事から引き出す。あなたが、どの程度、仕事を楽しみ、意義を引き出しているか確かめる簡単なテストがある。もし宝くじで勝ったら、仕事を続けるかどうか自分に尋ねてみることだ。

 私は、このルールが自分の仕事にも当てはまる事分かった。私に大成功をもたらした事は、大きな幸福をもたらさなかった。そして私に最大の幸福をもたらした事は特に成功ではなかった。

 私の仕事で最大の成功はラジオトークショーをやることだった。1982年に始めた。特に毎日、放送し始めてから、私は少し有名になった。そして良い収入になった。しかし、大きな幸福をもたらしたラジオの仕事は、週に一回、日曜日の夜に放送されるだけのものだった。それによって有名になることは、あまりなかったし、毎回、数百ドルの収入しかなかった。しかし10年間、毎週、私はReligion on the Line (目の高さの宗教)をやることが楽しみだった。番組の中で、私は、プロテスタントの牧師、ローマ・カトリックの司祭、ユダヤ教のラビ、そして、度々、第4宗教の代表の中で、司会をやった。私は宗教について話すことが大好きだった。世界中の宗教の代表と会うことによって視野を広げることが気に入っていた。毎週、10万人聴衆のために当代一の宗教的知性をとりまとめる仕事をうまくこなした。友情についても続けた。宗教への理解をもっと深めた。そして、次第に、神と徳への道がたくさんあることを認めることに極端にオープンになっていった。幸福を増やすための有力な組み合わせをつくることは最高に面白かった。

 私はそのショーを去り、50万人の聴衆がいる3時間のトークショーを毎日、ゴールデンアワーにやることになった。遙かに多くの人に影響を与え得ることは大きな満足になった。そして収入は5人の家族の稼ぎ手としては大変助かった。しかし実は、仕事の点からは、あまり名声がなく、金にならなくて、「成功」ではないショー、Religion on the Line をやるほうが、よりハッピーだった。

 さらに、私の作家としてのキャリヤーでは、過去13年間、自分のニュースレターを書いて出版することから、特に幸福を引き出した。しかし購読者が1万人になることはなかった。月2回発行する、時間を食うベンチャーから金銭的な収入は引き出せなかった。しかし、それを書くことで、巨大な幸福を得た。

 私の3つ目の大きな幸福の仕事源もまた、ほとんど収入をもたらさなかった。一般に限定される―――ユダヤ神学校で聖書を一行一行教えること。

 私の人生と仕事は、本当に信念を強化した。仕事の喜びと意義が幸福の源だ。成功のレベルではない。

 

 

 金と幸福

 もし、職業的、物質的成功が幸福と同じだという事に反対して、私の主張を全部、認めたとしても、否定できないことがある。金は幸福を増やせるという事だ。美しい家を持つことには大きな喜びがある。教育、医療、その他、子供に与えたいものを与え得ることには大きな安心がある。素晴らしい音響機器でバッハを聞くことは大きな喜びだ。世界中を旅行する事が出きることで大きな満足がある。経済的な問題で心配しなくてもすむことで、大きな心の平和がある。

 幸福に対する金の強い潜在的な力は、前の話(成功は幸福と同等でない)を無効にしないだろうか? 少しも成功は成功で、幸福は幸福でない。

 しかし、経済的成功と幸福は同等でないに違いない。―――経済的成功を目指すことは、必ずしも幸福の破壊ではない。経済的成功を求めることが破壊的なのは、幸福を増やす目的ではなく職についた時だ。自分の利益のために職についた時だ。なぜか。前に示したように、なぜ成功したいのかを決めることは必須のことだ。

 次のような理由で経済的成功を望むのであれば、幸福を増やせる。―――より大きな喜び、心の平和、愛する安心―――特に心の経済的な平和を得るとき、他のより深いゴールを目指す。一方でもし、金に対する欲望が、物欲からきている場合、または、他人によく見せる必要からとか、単に金持ちになりたい欲望からとかであれば、幸福を増やさない。減らすかも知れない。なぜなら、一度金持ちの状態になっても、まだ次の状態のままだからだ。つまり、もとからあった不幸、不健康な欲求、金を作ることが不幸を取り除くとは思えなくなるという新たな問題。不幸で貧しい人は、金が自分をハッピーにすると夢みることができる。不幸で金持ちな人は、そんなことを思うことはできない。

 あなたは、もっと大金をつくり、成功するために、何を犠牲にしなければならないかを決めなければならない。多くの人にとって、大金を扱うことは、遙かに多くのの大切な幸福源を止める事になる。例えば、次のことをしなければならないのなら、経済的成功はあなたをより不幸にし、ハッピーにはならない。家族を無視する。あなたが憤慨する仕事をする。最も価値あることを妥協する。友情をあきらめる。しゃくに障ることに耐える。  

 

 

 成功を定義する

 ほとんどの人は成功について考えるとき、職業上の成功や物質的な成功を考える。このタイプの成功は幸福と同一と見なすことができない。しかし、幸福へ導く成功には無数の形がある。愛、人間関係、子育て、他人の人生に接すること、での成功はより深く、知識を得て、良いものを手に入れ、誰かについて学ぶ。

 ではなぜ、多くの人は、成功を職業的なものや物質的なものに限定するのか? これは複雑な質問だ。なぜなら、人生について多くの見方を持つ心によるからだ。

 成功を職業上の成功や物質的な成功に限定する傾向がある理由は、基本的な男女の引力による。男性は特に、幸福を職業的、物質的な成功と同一視する。なぜなら、それは女性を引きつけるからだ。女性を引きつけたい男性は、女性から愛されるように、注意を引かれるようにするために、例えば、切手の大コレクションをしたりする。切手収集は主として男性の楽しみだ。もちろん、男性は同様に、女性の行動に影響する。多くの女性が幸福を美しい事と見なすのはその理由だ。女性の身体的魅力についての男の価値感は、片や、女性の価値感になる。男性の職業的、物質的成功に対するものと同様だ。

 成功を狭い物質的なものに限定する2番目の理由は、また、基本的なものだ。―――ほとんどの人は競争本能を持っている。他人よりもっと成就して、もっと富を築いているように見せる必要がある。これは現代の文明社会の構図ではない。ニューギニアの高原では、男性は物質的な価値を見せるために、豚の牙を身につける。ニューギニアからハリウッドにきた女性は高価な宝石で自分の富を見せる。

 私たちが成功を狭く限定しがちな3番目の理由は、職業的、物質的成功は普通、もっと有意義な成功の形より、魅力がある。例えば、ほとんどの人は、良い友人をもつ事が遙かに有意義であるということを認めるだろう。幸福は遙かに大切だ―――職業上の大成功より。しかし、私たちの中で、仕事に中くらいに成功して、深くて慈悲深い友情で「大成功」していることを特徴としている男はあまりいない。同時に、いつも世界中に友人を持っているかどうかを知らずに富のある人を成功者だと呼ぶ。私は「成功」という用語をもっと正確に使うワールドワイドな動きを予想できない。しかしそのような動きは、結果、大きく人の幸福を増やすだろう。私たちが、そういう祝福された時勢になるまで、成功に関する最近の定義が幸福より不幸を増やすことになっていることを素直に認めるべきだ。

 人は、たくさんの陽炎のようなものに唆されている。キラキラひかっていたら、私たちはそれを探す。この欠点は人の天性の一つだと言うことは、西洋人のエデンの園の物語で明らかだ。アダムとイブは不死の他、誰もが望む全てのものを持っているように見える。そこには彼らが持つ物を全て破壊できるものが一つあった。―――善と悪の知識の木の実を食べること。それは「見た目、美しい」ものだった。そして、私たちのように(アダムとイブは全ての男性、全ての女性)、「見た目、美しい」ものは幸福を増やすと思い、禁じられた実を食べる。

 美しい家、まぶしい車、ゴージャスな服、キラキラ光る宝石、もちろん魅力的な男女は全て「見た目、美しい」。それは、私たちが実際に幸福になれること全てを犠牲にして、

物質的成功を目指す理由だ。―――それは魅惑的、魅力的なので、(もし、私たちが全くその通りに問題を考えれば、)それが自分をハッピーにするだろうと考える。どれだけ多くの男が、「見た目、美しい」ことを目指してきたか? 友情を決して深めることなく、知識と知恵を深めることなく、―――幸福につながるもの全て――を見ることなく、子供と妻を無視してきたか?

 全ての信仰(宗教)の聖職者が言ったことを、度々思い出す。「私は多くの男の死に立ち会った。そして彼らのうち、次のように言ったものは一人もいなかった「もっと長い時間オフィスで過ごさなかったことが残念だ」 

 

 

第11章 幸福は面白いこと

 

 幸福は面白い事と同じではない、というエッセーを初めて書いた時、息子のデイビッドは7歳だった。彼は、パソコンの画面を見てそのタイトルを言った「幸福は面白くない」。彼は困った顔をして言った。「面白くないの?」

 子供にとって、面白いことと幸福を区別できることは、あり得ないのだ。大人になっても、多くの人はこう思い続けている。―――それは不幸な事だ。なぜかというと、面白いことと幸福が同等だと言うことは、幸福への大きな障害なのだ。

 ほとんどの人はこの公式を信じている。 H=nF、または、幸福の量=面白いことのn倍。友人の一人がかつて私に話した。「僕はいつも思うんだ。面白い経験を貯めることが出きればハッピーになれると。」

 幸福と面白いことは同じだと、ほとんどの人は信じている。彼らに尋ねてみなさい。例えば、幸福な人の場面を想像してみるように。ほとんどの人は、面白がっている人の絵を思い浮かべる。(例えば、笑っている人、ゲームを楽しんでいる人、パーティーで飲んでいる人)。 子供を抱き上げているカップルを想像する人は、あまりいない。結婚して30年のカップル、面白い本を読む人、幸福になる事をしている人、を想像する人は少ない。

 別の例で、面白いことに接している人で重要なことは、次の場面を見ることだ。つまり、人が公式に重要なこと述べる滅多にない場所。―――独身の人たちが。面白いことを提供する事と物―――スキー、ボート、テニス、映画、スポーツの試合を見に行くこと、外食に出かけること―――彼らが考えるその他の圧倒的なことは、思い出作りには大切だ。ほとんどは、見込みのある異性たちのためであって、友人と楽しい時を過ごすためではない。面白いことはそれ自身、人が探すものの中で、繰り返し必要と言われている。大人といえる人の特質を決めるように。

 次の広告はニューヨークのたった一冊の雑誌からのものだ。多分、アメリカの洗練された独身者は胸にこたえる。彼らは広告を載せる毎に平均100ドルを支払う。(括弧内はわたしのだ)

 

          30代前半のハンサムな男性。面白くて、ロマンチックな関係を探しています。

          魅力的なロングアイランド。陽気です。愛らしくて誠実な45〜55歳の白人男性を探しています。真の面白いことのために(真でない面白いことは何だろう?)

          ユダヤ人男性、45歳、(ボート、スキー、面白い)関係を分かち合う人を探している検眼士。(検眼士にとって面白いことが如何に重要か、ボートとスキーを一人でやることは明らかにしていない。彼は付け加えている「面白い関係」) 

          長いカール髪、かわくて、職業をもっていて、面白い。

          大成功、大きな魅力、高い教育、面白くー優しいマンハッタン人は、器の大きい男性を探しています。

          ロマンチックで、面白くかっこいい50歳以上の人を探している刺激的な女性です。

          魅力的で離婚の白人女性。41歳。面白くてかっこよくて敏感な人を捜しています。

          魅力的で、元気な、独身の白人女性。スポーツ、料理、旅行、面白いことが好きです。

          成功している職業を持つ人。46歳以上で、面白いセンスを持つ人。また、面白いことを大切にする人。

          職業を持っていて、強壮で、ハンサムで、キリスト教の男性。28歳。女性を探しています....ダンス、ビーチ、元気で面白い、まじめな人。

 

 友人・仲間として、面白いことを楽しむ人を選ぶべきだ、ということを認めたとしても、面白い事を強調しすぎるという問題が残る。なぜ面白いことがそんなに大切なのだろう? 何故、面白いことへの追求に容赦がないのだろう?

 明らかな事は、面白いことは楽しめることで、私たちは楽しいことを求めるようにプログラムされている―――セックス、食べ物、飲み物、5感を喜ばせるもの全て。しかし、何故私たちはそれほど熱心に面白いことを追求するのか。もっと深い理由がある。彼らは面白いことが幸福につながると信じているのだ。

 よくあることだが、結果的に失敗してしまう理由は、無能力によるものではない。それは、間違った前提による推論だ。古代の海の男は、遠くの海へ行くことを拒絶した。世界がなくなるところへ落ちてしまうことを恐れたのだ。理由は、間違っていなかった。彼らは間違った前提から推論したのだ。―――地球は平らだという間違った前提からの推論。また、多くの人がいくパーティー、セックス、映画、服、クラシックカー、他、彼らを幸福にしそうな面白いもの全ては、間違った推論ではない。間違いは、元々の前提―――もっと面白いことは幸福につながる―――なのだ。

 この間違った前提によって、多くの人が面白いことを追い求める。仕事での成功を目指すのと同じくらいまじめに。例えば、私の経験と私へのレポートで、当てはまらないものは、ほとんどない。多くの人は、大して面白くないのにパーティーに行く。一人でいる方がハッピーだ。しかし、もっと適切に言うと、面白いパーティーは面白いと連想されている。そして、面白いことは幸福につながると信じられている。

 人々は、ずっと次のように答えている。面白いことの提供者は、幸福を提供せず、時には、それほど面白くないことを提供する。もし今夜のパーティーが余り面白くなくて、幸福が増えなければ、それは間違ったパーティーだ。次回、もっとトレンディーで面白く、リッチなグループと一緒だったら、素晴らしい時を過せるはずだ。いつかこの考えは、こうなる。素晴らしい時を過ごす人々がいて、ハッピーな人がいる。

 

 

 面白いことと幸福とはどのように違うか

 面白いことが何故幸福をつくらないか、矛盾さえしているという事を解かるため、面白いことと幸福の主な違いを理解しなければならない。面白いことは、その時だけのことだ。幸福は継続する。言い換えると、面白いことは「〜している間」で、幸福は「〜している間と、その後」なのだ。

 セックスがよい例だ。人生で(女を)そそのかすことや、そそのかされる事ほど、面白いことは、あまりない。そして誰かとエキサイティングなセックスをする。しかし、そそのかした人の面倒を見なければ、結果、ほとんどの人はハッピーになれない。上辺だけのセックスは、「面白いことは〜している途中」、「幸福はその後」をうまく説明している。

 面白いことと幸福の違いについて更に付け加えると、面白いことには3タイプがある。

 

 

 アミューズメント(娯楽)

 面白いことの最初のタイプはアミューズメントパークへ行く事ような、単純な娯楽だ。スポーツ観戦、映画やテレビの鑑賞も含まれる。これらの活動の全ては面白いが、幸福をつくるものは1つだってない。これは他のどの議論にも反していない。このような活動は人生で建設的な役割を演じることもある。賢明に使用される時、それらは幸福を維持する。―――くつろぐことによって、問題への集中をゆるめることによって、笑えることによって。

 しかし、娯楽は幸福をつくらない。困ったことに危険をもたらすこともある。なぜなら、娯楽が終われば、楽しみも終わる。不幸な人々は、不幸から逃げるために娯楽を当てにするようになる。そして、常に娯楽を追求するようになる。

 

 

 幸福を減らす面白いこと

 面白いことの2つ目のタイプ。これは実際に幸福を減らすことがある。それは、不道徳なことや不法以外の何物でもない。麻薬をやるのと同じようなものだ。それは、例えば、脂っこい物を食べることのように、邪悪なこと以外の何物でもない。美味しい物を食べることは大きな楽しみだ。しかし、多くの人にとって、これらの食べ物は、幸福よりは不幸の元になる。次のグループで、より幸福になるのはどちらか?―――脂っこい食べ物を楽しむグループ。普段は楽しみを押さえ、望ましい体に保つことを学んだグループ。

 

 

 義務的な面白いこと

 「途中 vs 後」の法則が示す、3番目の面白いことのタイプは、私が「義務的な面白いこと」と呼んでいる事だ。その特徴の違いは、個人の欲望によってというよりは、社会の期待によってもたらされる。

 よい例は、大晦日とクリスマスイブ。この時、人々にとって、クリスマスの目的はウキウキすることで、大晦日の目的はふざけることにある。しかし、一年うち、この時に不幸が増えることは誰もが知っている。義務的なパーティーへ行く人と行かない人の両方とも、不幸が増える経験をしている。クリスマスと大晦日のパーティーへ行かない人は、誰にでもある面白いことを見逃していると思う。大晦日に一緒に酒を飲む事は、次のことを示している。「義務的な面白いこと」は期待された面白いことをもたらさないことが度々ある。それは、確実に幸福をつくらない。

 

 

 面白いこと VS 幸福

 ハッピーな生活には、面白いことは断然大切だ(次を参照)。しかし、その特性を理解しないでいると、幸福が減る。一つの理由は、面白い事は麻薬と多くの点でよく似ている。面白いことは幸福をもたらすと思って、多くの男女がその中毒になる。エネルギー、金、時間、を増やす面白いことを追求する人々は、生活と家族にとって、大きな出費になることがある。

 麻薬の別の特徴とも、似ている。―――次のことは一つ目の理由よりもっと強く作用する。多くの人にとって、面白いことは、「キック(興奮)」が不十分な中くらいの事では満足されない。そして幸福と面白いことが同じだと思う人にとって、中くらいの面白いことを探すことは、中くらいの幸福を探すことと同くらいばからしい事なのだ。

 もう一つの問題は、面白いことの興奮度の閾値(レベル)は上がっていくということだ。現実問題だ。あなたが初めてキスをした時、――ボーイフレンドかガールフレンドとのほんのちょっとのキス―――どれくらい楽しかったか考えて欲しい。そして、何回かのキスの後、十分に楽しい事ではなくなってしまう。愛撫が始まる。そして十分楽しむことができるように服も脱ぐ。結果、セックスになる。この時、面白さと刺激が大幅に失われたため、面白いことが目的の人は、もっと楽しいことが必要になる。不貞で、互いに他のパートナーとのセックスを探すことは、その例かもしれない。その生活様式は、普通、幸福よりも孤独と結びつく。

 これに関して、私は時々考える。ハリウッドのスターは世界中で活躍している、ほとんど天与の役者だ。この最も金持ちで、美しく、有名な人々は、常に最も面白いことに接している。―――最高のパーティー、グラマーなパートナーとの最高のセックス、高価な車、豪華な家、エキゾチックな休暇、最も多い契約のチャンス、最高のスポーツ観戦、最高の劇場鑑賞―――これらによって、単純には幸福にならないことがわかる。初めに指摘したように、全ての面白いことの背後には、悲しい生活があることを、実録や回想録は示している。アルコール中毒、子供を失った、生活が低下した、深い孤独、他のいろいろな中毒について書かれたハリウッドスターから、私たちは大きな恩を受けているように感じるべきだ。もし私たちが他人の人生から学ぶことが出来れば、―――知識を最も良く定義するかもしれない特徴―――面白いことは幸福につながらない、と言うことを証明してくれる人々に感謝する。しかし、ほとんどの人は他人の人生からは学ばない。彼らは次のことを信じ続けている。前の面白いことが彼らをハッピーにできなかった何かを、次の面白いことはするだろうと。

 麻薬の品質のように、同じくらい強い別の方法がある。面白いことは実際に幸福を減らすことがある。もし、面白いことと幸福を同じものと見なすと、面白いことの反対や、痛みのあることを不幸と見なすことになる。しかし、痛みのない幸福はあり得ない。出きる限り面白いことによって、痛みを避ける日常の試みは、幸福を不可能なものにする。これは次の章で述べる。

 

 

 適度な面白いことの使用

 面白いことの大切さ

 

面白いことを避けている人生は、面白いことに専念するのと同様だ。幸福をもたらしそうにない。大方の見方のように、中庸が幸福への道だ。

 面白い事と幸福の法則を理解する良い方法は、食べ物とスパイスの例えだ。食べ物は人生の基本的に必要なものを表し、スパイスは面白いことだ。スパイスだけでは、生きられない。スパイスはうまさで、食べ物は生きるための栄養源だ。しかし、スパイスなしの食べ物は、喜びのない食事のようだ。同様に、面白いことだけで、生きることはできない。しかし、単に生活必需品だけでは、人生はつまらない。

 こうなると、面白いことは、とても大切だ。人生は大きなストレスとお決まりばかりだ。それから解放される必要がある。休暇の後は、いろいろな問題をはるかに良く扱う事が出きる。

面白いことの良い例は、強調される必要がある。面白いことが幸福と同じでないということに反対する例と同じくらいに。次のように、様々な人がいる。面白いことばかりを求める快楽主義者(継続的な幸福に至っていない)、面白いことと反対のことをする禁欲生活者、面白がることができない非快楽主義者(快楽主義者の逆)。彼らは心理学的、または、哲学的理由の禁欲主義か、非快楽主義かも知れない。そのような人々は面白いことを罪深いことと考えているのかも知れない。または、本当に深くて意義深い人生に有害であると思っているのかも知れない。

 

 

面白いことの用い方

 食べ物の比喩を思い浮かべると、面白いことには2つある。――スパイスとデザート。スパイスによって、必要な栄養のある物を楽しめる。(例えば、スパイスによって、淡泊質を美味しいものにする)。また、面白いことの最良の使用法は、必要な事を楽しむようにする事だ。そして、それによってハッピーになることだ。(例えば、仕事、家族を養うこと、勉強すること)。

 一方、デザートは、それだけでも食べられる。面白いことは、ある部分でスパイスと似ているし、ある部分ではデザートに似ている。しかし、このようなことには大切な行動は伴っていない。ただ、面白いだけなのだ。たまには、有意義な行動を伴わない面白いことも良いが、面白いだけの人生は、デザートだけの食事のように、お腹一杯にならない。

 このように、面白いことを比較的意味のない娯楽(デザート)に頼るのをやめ、大切なことを出きるだけ面白くするようにすべきだ(栄養にスパイスを加えるように)。例えば、私は度々、書くことは難しくて骨の折れることだと思う。そのときは、それを出きる限り面白い物にしようとする。手書きで物を書くとき、異なった万年質と、異なった色のインクを使う。パソコンで書くときは、定期的にキーボードを変え、フォントも変える。そして余裕が持てるように最も鮮明でカラフルなモニターを使う。

 実際、人生の全活動の中に、面白さを取り入れることは出きる。それは面白いことの最も大切なことでもある。もしあなたが面白がりながら際だったことするとしたら、―――家族をやしなう、仕事で努力する、ボランティア―――あなたは、本当にハッピーになる。

 そのとき、デザート――面白いことだけの活動――の時間と必要もある。趣味から休暇へ、スポーツへ。可能性は無限だ(時々、不幸になるが)。

 ここでは、若い読者に特に推奨したい。彼らは、素晴らしい幸福を探しているだろう。ただ面白いことだけに休暇を楽しみたい事は、よく分かる。私は面白く休暇を過ごしてきたことを幸運だったと思っている。一般の若者のように、「太陽の下での面白いこと」で、私には、2者択一があった。休暇は面白いだけでなく、個人の成長になる。しかし、私の友人の多くはビーチかホテルのプールで太陽の下で横になって休暇を過ごしていた。私は普通、同じ金額の金で、外国へ旅行することで過ごした。(不運にも一人で。誰も、例えばブルガリアへ私と一緒に行きたがらなかった)。私は友人の何人かと同じくらい面白くはなかったかも知れない。しかし、一人旅行は面白かったし、それによって、長続きする幸福がもたらされた。私は、今までやった事を高めるために70カ国以上は旅行した。

 

 

 まとめ

面白いことについての基本的な理解は、誰かの人生の最も自由で強力な発見だ。それは、私たちの時間を自由にする。―――今、私たちは、自分をハッピーにしない面白いことに時間を費やすことはできない。―――多分、私たちは、ハッピーになるために高価なものを買う必要はない。それによって嫉妬から解放される―――今、次のことを明らかにする。私たちが考える人々はハッピーだ。その人には、面白い事がいっぱいあるように見える人はいない。

 さしあたり、わかっていることは、面白いこと自体は幸福をもたらさない。私たちは、自分の人生を違ったものにし始めている。この事を実現すれは、人生は変化する。

 

第12章 恐れと痛みを避けること

 

 このように、面白いことと幸福の同一視は、多くのマイナスの結果をもたらす。その最悪な結果の一つは、もし幸福になりたければ、痛みは避けるべきだ、という信念を強化してしまうことだ。結果、面白いことが幸福を導くのならば、痛みは不幸を導くに違いないと。

 全くの真実だが、幸福を導く物は全て痛みを伴う。一方、広く認められていることだが、2つの例を引用すると、仕事での成功、スポーツでの成功では、痛みを伴う。(例えば、激しい努力、自己訓練、喜びを先延ばしすること)、幸福における成功はほとんど痛みと結びつかない。

 結果として、多くの人々はより深い幸福が得られる事を避けようとする。例えば、結婚、子供、知的な追求へのチャレンジ、宗教的な束縛、ボランティア。彼らは、痛みを恐れ、必然的に痛みを伴う。幸福をもたらさない「面白い」事にもっと時間を費やすことになる。テレビを見るような。

 1000年前、賛美歌の作者が言ったように「涙を撒く人は喜びを刈り取るだろう」。多くの人は、しかし、信じている。涙なしで、種を撒いて刈り取る事が出きると。

40歳の独身者に、何故独身なのか聞いてみると良い。デートが満足の行くものでないこと(そして幸福でないこと)を認める人であっても良い。彼は、次のように答えるだろう。永久の束縛はイヤだ。男にとって、全くの苦痛だ。差し当たって、独身生活が面白く刺激的であるとしても、この課で学んだことに従うと、次の答えは、結婚した男だ。どちらが幸福で、健康で、長生きか?

 同様に子供を持たないことを選んだカップルは子供を持つことを選んだカップルよりももっと、苦痛のない人生だ。しかし子供を持つことからくる幸福はない。(この事は25章で詳細に議論する)。

 多くの人はこういう墓碑銘を望んでいるようだ。「私はできるだけ苦痛のない人生を過ごした」。しかし、人の一生の目的は苦痛を避けることではない。それは動物の一生だ。―――しかし動物は幸福を知っているはずがない。

 「生きるという事は苦しみに耐える事だ」とドストエフスキーは書いている。もしロシアの大小説家が、生きることは苦痛だけを意味していたとしたら、彼はあまりにも悲観論者だったことになる。しかし彼が意味していることが、生きる事と経験は、苦痛に耐えることが一杯あるということであったなら、彼は全く正しい。

 私の世代で、幸福ではない人。そのうち、少なくない人の理由1つは、こうだ。彼らは苦痛のない人生は可能だと思っていることだ。彼らの両親の多くは子供を苦痛や挫折から守るため一生懸命勤めた。そして知らず知らず、子供たちに教えた。痛みを避けることは幸福にとってとても大切だと。苦痛と如何につきあうかは教えなかった。

 選択権はあなたにある。できるだけ苦痛のない人生を望むか、できるだけ充実した人生を望むか? 2つは互いに排他的だ。「苦痛のないことに得ることはない」は美しいボディーをつくるときだけの真実ではない。素晴らしい人生を得るときも真実なのだ。

 

 

第13章 期待

 

 私は大学で宗教の比較を学んだ時、 仏教徒は人生で長続きする深い効力を持つように教えていることが分かった。つまり人生の苦痛は満たされない欲望や期待から来ていると。この考えの根本は、仏教は欲望と期待を取り去ることを目的としている。

 私は仏教の目的の初めの部分は受け入れることができなかった。―――欲望を取り除くと言うこと。個人と社会にとって、欲望を取り除こうとすることは、払いたくない金を払うことになることがある。例えば、健康に対する欲望なしで、病気のためのワクチンと医療技術を見つける仕事をする人はいない。これは一つの理由だ。西洋社会では、宗教や伝統でも、欲望は受け入れられている。これは現代の医療行為の基になっている。中国では医療的な芸術が磨かれている。それはまた、また、相続人にも欲望を受け入れさせる伝統でもある。

もちろん、欲望の多くは健康的ではなく、マイナスの結果になる。しかし、欲望は素晴らしい人生(道徳的で幸福な)には不可欠だ。それが幸福に反対するように働きがちだとしてもだ。

 しかし期待は、別の問題だ。ここで仏教徒が教えていることは、普遍的で大切なことだ。もし私たちが、期待を何かが起こること思っているなら、当然、良い物を手に入れても良い。または、欲しがる資格があると感じても良い。そのとき、欲望は不幸を招く。必要のない苦痛が生じる。そして幸福の大切な源――感謝――を傷つける。

 欲望を排除することは、ほとんどの人にとって不可能か、あるいは望まれることではない。しかし、期待を最小にすることは現実的で、大いに望まれることだ。一般に、期待は不幸を招く。

 健康に対する期待について考えてみよう。ほとんどの人にとって、健康が幸福である時は、健康になりたいと思っていないときだ。そして自分が健康であることがわかった時だ。自分の体に新しい瘤が発見されたと想像してみよう。あなたは医者へ行く。そして言われる。疑わしいので、手術かもしれないと。一週間後、結果は、瘤が良性だと分かる。その日はあなたの人生で最も幸福な一日になるだろう。

 これは注目すべきだ。何故なら、あなたの健康は、瘤が見つかる前と瘤が良性だとわかった最高に幸福な日とほとんど変わっていない。あなたの健康は何も変化していない。しかし、今ではあなたは、心から幸福を感じている。なぜ? この日、あなたは、健康になりたいと思わなくなったからだ。

 私たちは健康になることを期待すべきでないと言うことか? 答えはイエスだ。私たちは健康になることを望み、健康になるよう勤めることが出きる。また、そうすべきだ。

しかし、現実に、私たちは毎朝、起きる。そして健康であって、ハッピーになるべきだ。瘤が良性だと診断された素晴らしいニュースを受けた時のように。

 2つ目の例。愛している人が死んだとき、苦痛の中で最大の部分は、人の死より、満たされない期待によるものだ。―――すなわち、その人がもっと長生きして欲しいという期待。私たちが自分の両親をどれだけ愛しているかは問題ではない。私たちは親が90歳で死ぬときよりも比較的若い時に死ぬ方が、大きな苦痛であることを経験する。私たちは深く愛していないことに気づく。彼らが何歳で死ぬかは問題ではない。

 同じ理由がある―――異なる期待―――今世紀、子供が1歳になる前に死ぬことが度々あった。多くの親は、子供の早い死に、今の親ほど悲しまなかった。前の世代の親は、今日の親のように、子供が幼少期を過ぎるまで生きることを期待していなかった。ここでもまた、不幸になる期待がある。

 3つ目の例。私たちは仕事につきたいと思っている時も、思っていない時も、不幸になる。これは何を意味するか、私たちは仕事につくため、面接に行くとき、仕事に就くことを期待すべきでないということか? イエスだ。しかし、そのような態度は、職に就くことのプロのアドバイスと矛盾していないか? また、イエスだ。

 私個人について話そう。私の最も大きな目的は、自分の価値とアイデアできるだけ多くの人に発信することであった。そして32歳の時、ひどく興奮してアメリカで最も成功しているトークラジオ局の一つである、ロサンゼルスのKABCでトークショーをやる仕事を見つけようとした。私はまだ、局に行くときの態度を思い出せる。私は信じていた。自分が仕事をするに値すると。その仕事が欲しかった。そして自分が雇用されるように説明する能力があると、強い自信があった。しかし、その仕事に就くことは期待していなかった。

 なぜか? 私は自分の運命を十分にコントロールしていないことが分かっていた。例えば、人生での運の役割―――試験の夜、喉頭炎になったら? 番組ディレクターの甥もその仕事を申し込んでいたら? その夜、交通事故にあったら? 

 仕事の成功は、期待される勝利を確実にすることだと信じる人にとって、この態度は自己敗北に聞こえるかも知れない。しかし、このケースは違う。私はどんな候補者にも負けないくらいその仕事を欲しがっていた。しかし、どんな候補者にも負けないくらい自信があるかどうかは疑っていた。しかし、その地位のために仕事を得ようと考えている候補者とは違っていて、私は仕事を得られないことからくる不幸を差し控えることにした。その上、私は職を得たとき、感謝がとても大きいことを経験した。なぜなら、そのような期待を持っていなかったからだ。たしかに仕事を期待したときより、感謝は大きかった。

 ほとんどの場合、期待は幸福にとって不必要な障害だ。期待が満たされない時は必要のない苦痛を伴う。満たされた時は、幸福の最も重要な要素である感謝が小さくなる。 

 

 

期待は幸福を小さくする。

 期待が満足される時―――満足されない時

 期待が満足される時、私たちは失望して苦痛に耐える。期待が大きくなれば、苦痛も大きくなる―――その上、不必要な苦痛。

 あなたに適した仕事を期待する話にもどろう。私たちは度々仕事を得たいと思うようアドバイスされる。それによって、仕事を得るチャンスは、拡大するだろう。私達は何時も、仕事、地位、昇給、他の高度な目的を勝ち取った人から聞く。これらを勝ち取った人が「いつも思っていた」ことは、自分が欲しいものは何かという事。そして、このことや期待は成功への道具だということだ。

 この態度の問題点は、仕事を得たいと思っているが、まだ得ていない250人の候補者からは、聞かないことだ。この人々が不必要に耐えている苦痛はいか程だろう。なぜなら、彼らは仕事を得たいと思っていたが、まだ得ていない。私たちは度々、最新のハリウッドスターが次のように言うのを耳にする。彼らが「いつも思っていた」事は、スターになりたいという事だ。しかし、メディアはロサンゼルスのレストランを尋ねて、無数のウエイターやウエイトレスにインタビューしたりしない。彼らは、また、自分たちがスターになることは、「いつも思っていた」(テーブルで待つことはもちろん、生活のための完全に立派なやり方だ。しかしウエイターになることは、ここでは要点ではない。要点は、こうだ。つまり、圧倒的大多数の期待している個人は夢を実現することはない―――勝利者はほんの極小さなパーセンテージの人だけなのだ)

 一握りの人にとって、仕事を得ようと思うこと、または売り込みをしようと思うことは時々、助けになる。しかし、期待はたいてい、いつも幸福を破壊する。期待を持つことは250人または10、000人に一人の勝者に作用する。しかし、249人または9999人の勝てなかった人にとっては大きな不幸がかかる。多くの人のため―――そして私たちの全ては時々そのような人々の間になる。―――私が書いていることは、期待について警告していることだ。

 一方、明白なことは、期待が成就しない時は、不幸が増加するということだ。そして、ほとんど明らかでないことは、期待が成就したときも同じくらい不幸が増加すると言うことだ。何故かを理解するため、私たちは初めに人の幸福の最も大切な要素について確認しなければならない。

 

 

 幸福へのカギとなる感謝を、期待はむしばんでいる

 その通り。「幸福の秘密」はある。―――それは、感謝すること。幸福な人は感謝している。感謝しない人は幸福にはなれない。不幸は人々に不平を言わせる、と私たちは考えがちだ。しかし、より正確に言うと、不平を言うことが人々を不幸にしているのだ。感謝する人になりなさい。そうすれば、もっと幸福になれる。

 感謝することは、幸福へのキー(答え)だから、感謝が減ることで、幸福も減る。そして、感謝を減らすもので、最も大きいものは、期待することだ。期待と感謝の間には、逆の関係がある。期待が大きくなる程、あなたは、感謝しなくなる。期待するものがある時は、それを得ても感謝しないだろう。あなたは、明日、健康に目覚めることを期待している場合、自分の健康に感謝しそうにない。一方、もしあなたが明日、健康に目覚めることを期待しない場合、もし起きられれば、本当に感謝するだろう。私たちのほとんどは、失う恐れがあった後か、実際に失った時しか、持っていることに感謝しない。―――何故なら、私たちは、もはやそれを持っていることを期待していないからだ。

 感謝、その最も大切な幸福の要素は、主として、期待していないものを受け取る事にかかっている。それは何故か、例えば、私たちが子供に期待する分だけ与えるとき、私たちは実際に彼らの幸福になる能力を奪っている。―――なぜなら、彼らはだんだん感謝しなくなる。これは、子供にいつも「ありがとう」と言うように教えることがどれほど大切かという理由だ。―――これは、ただ単に上品なことだからと言うことではない。この言葉を発することは、人に感謝を教え込ませるからでもある。

 これは多くの理由の一つだが、正しく信仰されるとき、幸福にとって宗教は大切だ。

―――宗教は、通常、感謝する事を教えている。例えば、通常、食事の前に神に感謝する人は、自分自信に感謝することを教え込んでいる。非宗教的な家族は食事毎に感謝を捧げることができるだろうか? この理論では、イエスだ。家族のメンバーは頭を垂れ、彼らの食べ物を育て、収穫した農民に、そして市場へ運んだ運送業者やスーパーマーケットに感謝できる。しかし、今までそんな家族は聞いたことがない。

 クリスチャンは、例えば、食事や友人と集まった時、感謝を捧げる。感謝の言葉を述べることで、ある程度の感謝が引き出されることは疑いない。別の例がある。ユダヤ教には、自分の体に対する祝福もある。この祝福は、今日まで多くの信仰心のあるユダヤ人によって、風呂からでるときにも捧げられてきた。その時の期待と感謝は次の通りだ。

 

「祝福されるのは、神であるあなた、世界の支配者、知的な人を創造し、心霊な穴と空間をつくった。前から知られていたことは、もし穴と空間のうち、一つでも閉じているべき時に開いているとしたら、または、開いているべき時に閉じているとしたら、私たちは存在できない。全ての人類を癒し、疑いのない神であるあなたに祝福を」。

 

風呂へ行くのにこんな大げさな感謝を捧げる人は、ほとんどいない。しかし穴が開いた人は、それらが閉じているべき時、または閉じているとき、開いているべき時、普通は感謝をもって風呂にはいったりする。感謝して、休息は主なイベントのために取っておくものと考えている。そのような人にとって、感謝する人にとって、バスルームで祈りを暗唱する事によって、バスルームへの小旅行は、感謝と幸福を引き出す。

 

 

 全く期待すべきでないのか?

 どこまで期待すべきでないのか? 私たちは全く期待すべきでないのか? 明日、健康に目覚めることは、期待すべきでないのか? 飛行機が目的地へ安全に着くことは? 子供が親から愛されることは? 

 これらの質問にそれぞれ答えても良い。しかし初めに、前に述べた大切なことがある。期待は次のことを当然意味している。起こるであろうこと。実際に必然的な何かに関心を持つこと。――例として、明日太陽が昇ることのような。そのような将来についての確実性は、人の人生ではなく、自然の生き物のある場所においてのみ可能だ。このように、太陽が昇っても私の幸運ではない。何故なら、地球の自転は不変の原理に支配されている。しかし、私が愛している人が明日健康に目覚める時は、幸運だ。

 同時に、期待することを止めることは、論理を捨てることとは違う。証拠のよりどころとして、私が次のどちらだと考えているか、尋ねられたとしよう。私と愛している人が重大な病気もなく、明日目覚めるだろうと言う場合。答えはイエス(期待すべきでない)だ。私は、明日、起きた時、ガンになっている確率が50―50だとは理性的には思っていない。しかし、明日、太陽が昇ることを当然のことと思っているように、明日も健康だということを当然のこととは、私には思えない。いつか健康に目覚めない日がくる。しかし、太陽は間違いなくその日も昇る。

 従って、私は飛行機に乗るとき、目的地に安全に着く方に賭けるだろう。統計的には。私は飛行機に乗る時、安全に着くとは考えない。しかし、安全に着くことは、太陽が昇るのと違って、必然的なことではない。そして、安全に到着することに賭けていても、到着を信じ切っているわけではない。だから、飛行機が安全に着陸するたびに感謝している。飛行機が安全に着陸する時に拍手する他文化圏の人と、私は同じだ。彼らにとって、安全に着陸することは当然のことではないから感謝するのだ。―――そして安全に着陸したことで感謝しない私たちよりも、彼らはハッピーになっている。

 このように、珍しい期待のケースで、質問に対する答え「私たちは完全に期待すべきでないのか?」は、私たちが完全にコントロールしていない場合の答えと言うことになる。期待はすべきではない。そして私たちは人生の大切な事のほとんどを完全にはコントロールしていない。―――私たちの健康と愛している人の健康、どのくらい長生きできるか、望む仕事を得られるかどうか。私たちは、期待する。しかし、他の大切なことのいくつかはコントロールしている。私たちは自分の最善の努力を費やすかどうかはコントロールしている。上品に振る舞っているかどうかはコントロールしている。―――私たちは、道徳的でない意志を持っている。そして与えられた健康と能力、仕事の品質もまた、コントロールしている。

 他人への期待に関しても同じ法則が当てはまる。―――他人が完全にコントロールしている事に対して、私たちは期待することが出きる。―――しかし、一つ付け加えると、私たちは自分の期待よりも他人に対する期待を少なくすべきだ。(自分のために、また彼らのために)

 

 子供

 一つの共通の例がある。私たちのほとんどが、巨大な期待を抱いている人々がいる。子供たちだ。―――その期待は親と子供の両方にとって有害なことがよくある。自分の子供に大きな希望を抱くべきでない。子供に要求すべきでない(例えば、互いに、または他の子供に宿題を押しつけあう事を意味していない)。そして子供たちが目的を決めるのを助けるべきだ。しかし子供に制限を加えるだけ期待を持つべきでない。これは子供のためだ。―――彼らは独立した人間だ。私たちの延長ではない。そして私たちの目的のためではない―――子供への期待は必要のない落胆をもたらすことが度々ある。

 

 配偶者

私たちが普通に期待を持っている別の例は配偶者だ。この期待は最小限にしてもしすぎることはない。もちろん、いくつかの基本的な道徳的期待は正当性がある。そして実際必要だ。例えば、妻は夫に打たないように期待することはできる。夫は妻に子供たちと逃げないことを期待することは出来る。しかし、期待についての法則は結婚にも、残りの人生にも一般的には当てはまる。実際、期待は簡単に結婚を傷つけることが出きる。なぜなら、配偶者から期待されればされるほど、それを当然のことと思うようになっていくからだ。そして全ての素晴らしい事にたいして感謝しなくなっていく。配偶者との組み合わせが当然の事になると、お互い感謝しなくなり、感謝を表す事もしなくなる。これは、ほとんどの結婚にとって致命的だ。

 

 

一つの例外―――子供は愛を期待すべきだ。

 大きな例外がある。全ての幼い子供は親から無条件に愛される権利がある。本当は愛されるべきだ。子供にはそのような愛を受け取る生得権がある。

 

 

 将来をどのように見るべきか?

 期待を大きく減らすことで、私たちは将来をどのように見るべきか? 答えは、私たちは自分自身の目的、希望、野心を持つべきなのだ。そして、配偶者からの貞節や、従業員からの誠実な労働のような、他人に適当な要求を持つことは望ましい。しかしこれは、期待とは異なっている。

 考えるべきでないこともある。幸運を期待することは、野心ではない。最も高い目的は野心があることではない。または積極的に考えていないということだ。しかし、期待を持たないことで、2つの美しいことが結果として起こる。満たされない目標に対する苦痛が最小になる。満たされたときは心から感謝できる。人生にこれだけ多くのものを与え、これだけ金のかからないことは、他には余りない。

 

 

 期待を減らすことに対する反対意見

 期待しないで目的を目指すことを多くの人は拒否する。これが示すことは、期待した方がより好ましいと言うことだ。そして、期待が満たされていない時、傷と落胆に対処する方法を学ぶ。職探しの例で、多くの人は次のように言うだろう。「僕は本当にその仕事が欲しいと思っている。だけど仕事が得られなくてもやっていけるよ」。私は、この見方を拒否する。期待が満たされない時、大きな落胆を切り抜ける方法がわからないと、幸福になれない。これは確かに真実である。しかし、そもそも期待を持つことに、説得力のある理由はない。期待を持つ事の短所――期待が満たされる時の低くなった感謝、満たされないときの不必要な痛み―――は、期待を持つ時の長所より、ずっと重い。

 証拠はないが、期待を持つことの長所の一つは、より楽天的になることだ。期待がないと、楽天的でなくなる。楽天主義は幸福には不可欠だという議論だ。しかし、期待をもたないことで楽天的でなくなるのは、次の場合だけだ。つまり、欲しいものが得られるだろうという想像を楽天主義とする場合。欲しい物を得るという期待は未だ確定していない事であって、楽天主義ではない。大人であれば、確定していない考えを持ったまま、幸福を維持できない。

 その上、辞書では、楽天主義には、2つの定義がある。一つは、「可能な最も良い結果を期待する傾向」。 もう一つは、「その場面の最も希望的な見方を考える」 楽天主義は、幸福にとって不可欠だ(→23章「プラス面を見る」参照)。そして、それは、期待を最小にする事と矛盾しない。結果、大きく期待を減らすことで、人生の落胆の量は大きく減る。そして落胆が減ると楽天的になることが多くなる。―――なぜなら、落胆が繰り返された後、楽天主義を維持できる人は、余りいない。

 要約すれば、期待を最小にした人は、感謝の気持ちをより多く持つ(なぜなら、期待していなかった素晴らしい事が多いほど、事がうまく運ぶ)。そして悲しいことは、はるかに少なくなる(なぜなら、少ないと、挫折になる期待が減る)。

 あなたは、どのようにして期待を最小にし始めるのか? 初めに、期待しないことで、楽天的でなくなり、成功が減るということを心配しない事。2番目に、普通、期待が人生で演じる破壊的な役割を認める事。3番目に人生の財産目録をつくり、その中の良い物すべてに感謝する事。あなたが感謝を日常的に表す事で、いつの間にか、持つことに対する期待を止めてしまうだろう。

 

 

第14章 家族

 

人生で家族からもたらされる幸福ほど、大きいものはない。子供に対する両親の愛は、多分、人生で最も強いプラスの力だ。そして夫と妻の愛は、結合の深さと愛撫において、素晴らしいものだ。家族が素晴らしい理由は、全ての高度な文明を構成するブロックだったからだ。そして、健全な時は、敵対する世界での避難場所でもある。

 しかし、重要な意味を持つ言葉「健全な時」は、家族がいつも健全とは限らないという事だ。そして、そのメンバーは幸福への大きな障害になることがある。

 家族は、次の法則の典型だ。最大の幸福をもたらす全ての事は、最大の不幸をもたらすことがある。このように、家族は、そのメンバーに、愛、安全、幸福をもたらすが、生き地獄になることもある。例えば、子供が、肉体的、性的、精神的に両親から虐待される時、またはアルコール中毒の両親に育てられる時、または親から捨てられる時。家族内の苦痛の例は実際、無限にある。

 しかし、民主主義が政府の最善の形であるように、子育てと男女の結合にとって、家族は最善の形だ。しかし、そうすることは簡単ではない。何故か? 次のことによって、家族の誰かにコンプレックスが与えられると、コンプレックスは等比的に増加する。両親と子供間における、家族の新しいメンバーの増加、兄弟の儀式、両親の緊張、落胆、アンビバレンス(同一物に対する愛憎)、会話のないこと。多くの家族の作用は乏しいが、うまくいっている。これは不思議なことではない。

 虐待している家族が幸福への障害だという事は、自ずと明白だ。それが幸福への障害だという事を議論するつもりはない。あまり明白でない大切な事は、虐待していない家族でさえ、両親と子供は幸福への障害をつくっていると言うことだ。

 

 

 

 子供を全く愛している親でさえ、幸福の障害になることがある。再び、何故か? 幸福で、健康で、善良な子供を育てるより、手術をする方が易しいだからだ。―――手術は何年か専門の訓練をすれば、できるようになる。一方、私たちは、赤ちゃんから成人になるのに、親以外の導きはない。しかし親の導きには、度々欠点がある。

 親は、ある人からキズをつけられる。ある人とは、単なる人よりもう少し神に近づいた役割が与えられた人だ。しかし、民に対する暴君の支配力でさえ、子供に対する優しい親の支配力より弱い。親は子供が必要とするもの―――体を養うこと、感情面の成長、慰め、―――全ての源泉だ。母親がムシャクシャする時、子供は精神的なキズを受けることがある。父親は仕事で困難にぶつかっているとき、こどもは小さな肩に重荷を感じることがある。

 子供に対する親の力は、不公正そのものだ。そして、公正であろうと、間違っていようと、私たちと子供たちは、ずっと力関係に従って生きている。もし母が支配しすぎていたら、父親が放ったらかしすぎたら、両親が会話できないくらいケンカしていたら、両親のどちらかが十分な愛や理解を示さなかったら、子供たちと十分な時間を過ごさなかったら、関心を示さなかったら、人生の不幸を取り除こうとしなかったら、子供達は、人生の苦痛に耐えることになる。

 このような親の理由から、私たちの初めの愛で幸福が可能になる。そして、また、多くの場合、幸福に対する本当の障害にもなる。

 なぜなら、私たちは、親を売る店で親を購入することはできない。(仮に出来たとしても、その年齢では、傷ついてしまう)。幼い子供にとって、親からもたらされる不幸は避けようがない。これは他の大人が子供を助けることが出来るかどうか、そして助けなければならないかどうかの答えだ。植物がごく僅かの太陽光線に反応するように、子供は、極僅かの愛にさえ反応する。従って、私たちは、子供達が愛の中に入れ、全ての子供を愛さなければならない。子供、祖父、叔父、叔母、年長の従兄弟、家族の友人、先生、聖職者―――実際に自分の子供を持つことにならない聖職者―――を持っていない大人で、親から適正な愛が得られなかった人の中には、危機的な役割を演じることがある。

 人生で親の力は、成人に達する頃でさえ存在する。子供時代に受けた傷が幸福への障害として残っていることがある。―――そして、障害となり続ける。例えば、親から十分な愛が得られなかった幼児のように、愛を欲しがり続ける大人も多い。その親は愛を示したがってない。これらの大人のほとんどは、両親が愛してこなかったことは変わらないという悲しい現実に直面するに違いない。今まで多くの大人はこの現実を認めなかった。そして、いつか愛を受け、欠けている愛を受け取るという希望を抱き続ける。子供のように。自分の親を変えることが出来ないと分かった時のみ、多分、僅かの愛撫を楽しみ始め、婚約できる。彼らは自分をハッピーにし始めるだろう。運命的ではない。このことは挫折で過ごした何年も後のみ、度々起こる。親からの適当な愛を受け取らないことは、子供の人生にポッカリ穴をあける。それは、9章で使用した「失われたタイル」だ。しかし、私が9章で指摘しているように、人生に失われたタイルがある時、あなたはタイルを見つけるか、他のものを探すかしなければならない。もし、親が変わらない時――そして、普通あなたも変わらない時――愛の代わりを見つけることだ。親の欠けた愛を大きく代替えするものがない時、人生は私たちの多くに子供時代の感情的な穴を満たすチャンスを与えてくれる。あなたはまた、夫か妻の愛、友人の愛、親より適切な他人の愛に浴することが出来る。私たちは親の愛を必要としている。しかし、私たちに役に立つのは愛だけではない。または、愛だけが心を満たすことができるという訳でもない。

 

 

 子供

 子供を育てること、子供から学ぶこと、子供を愛し愛されること。これより大きな喜びは、私の人生ではなかった。同時に、子供が幸福への障害になる、という現実も否定できない。

 子供を持つカップルと持たないカップルの幸福度を比較する研究を誰かがすべきだ。どのような結果でも私は驚かない。

 私は、子供がある方がより幸福だということが分かったとしても驚かない。例えば、子供を持つことによって、多くのカップルの夫婦生活は幸福の少ないものになるかも知れない。―――子供は両親間の素晴らしい関係の低下を補うかも知れない。夫婦の生活にはない情熱の中心に、子供を置くことになることがある。

 他方、幸福への障害がもっと増える、という結果にも私は驚かない。夫婦間の幸福にとって、子供の存在は、大きな挑戦だ。

 子供は、神、または、自然による、たちの悪いいたずらのようなものだ。情熱によって生み出されたものは、今度は殺し始める。性的な関係を持つカップルの多くは―――または、旅行をする。または絶え間のない会話を持つ―――子供を持った後も、以前していたようにする。これは、最低だ。人生で、親密な仲間を持つために結婚する人―――誰かと結婚する最大の理由―――は、子供が舞台に登る時、挑戦のために存在する。もし親に責任感がある時、彼らは極めて多くの時間を子供と過ごすだろう。そして、そうでなくても、この時間は、お互いに過ごせる時間だ。多くのケースではまた、親は、配偶者の愛と注意のために子供と競争していると感じる。

 さらに、最も良い環境―――子供が健康で、優しい性質を持ち、上品な友人を持ち、学校でよくやっていて、基本的に幸福―――でさえ、この障害は造られる。もし子供が度々問題を起こしているとしたら、次のことは何を意味しているか? 慢性の不幸、重大な病気、悪い同僚の周りをうろつく、学校を辞める。そのとき、カップルへの挑戦は果てしなく大きくなる。もちろん、素晴らしい結婚はそのような挑戦に耐えることができる。しかし、それは現実に挑戦だ。

 何年もむかし、独身で仲の良い友人が語った。問題のあるカップルが結婚生活のために出来る最も素晴らしいことは、子供を持つ事だと。私は彼にエールを送った。彼の友人がいつか結婚する日、彼がそのような馬鹿げたことを考えないように、私はできるだけ強く指摘してあげる必要があった。子供を持つことは問題のある結婚生活を更に悪くしそうだ。(そして問題のある家庭になってしまうことは子供への愛はない)。

 子供を持つことに反対しているわけではない。次のことを議論しているだけだ。私たちは子供を理解しなければならない。一方、幸福の主要な源は、幸福への障害にもなる。幸福への挑戦と障害は必ずしも回避されない。しかし彼らはそのように理解して直面しなければならない。

 

 

兄弟達

 幸福への挑戦は親と子だけで終わらない。最初の幸福への挑戦は、兄弟からくる障害に直面することだ。

 この事は、人類の歴史のなかでも比較的早くからあったに違いない。創世記の本は家族内の苦痛についてよく書かれている。特に、兄弟の競争と憎悪さえも、創世記にはある。歴史上の最初の兄弟は、その兄弟によって殺される。―――カインはアーベルを殺す。ヤコブとエサウは単なる憎悪の凡例だ。そして彼らは兄弟というだけでなく、双子だった。もちろん、ジョセフ兄弟による病気治療は、西洋では有名な物語だ。新しい子供が家に迎えられた日は、両親といっしょにいることができて最も幸福な1日かもしれない。しかし、新しい赤ちゃんの兄弟にとって、最も悲惨な1日になることが度々ある。兄弟が最も仲の良い友達だというのは、確かに真実だ。しかし、仲の良い友人に次のように言うとき、自分をバカにしているようだ。「彼らは兄弟のように親密だ」。何故なら、友達と同じくらい仲の良い兄弟はあまりいない。仲の良い兄弟に「彼らは友人のように親密だ」というほうが、ずっと正確だろう。

 子供を養おうとするため、親は出来ることを全部しなければならない。されていることは少ないのだ。ほとんどの親は、親子の関係に夢中なので、子供たち個人個人の関係に注意を払うことはない。親が兄弟喧嘩を終わらせることも不十分だ。もし、彼らの子供たちが、他の子供達にくらべ、中庸だったら、親は度々子供たちを叱る。しかし、その子供が、別の兄弟に対して中庸だった時は無視する。これで、兄弟愛が育つことはほとんどない。従って、多くの人は、兄弟による中くらいの処置の傷跡を経験して大人になる。

 

 

 要約

 幸福への障害で家族がいかに重要か? 考えた結果、次のように答えてもよい。もし、生まれたときから、全ての人が、幸福で、健康で、愛らしく、注意深く、道徳的な、父母(生物学上の、または養子関係の)から育てられたとしたら、世界はどれだけ違っていたか。警察署、戦争、幸福について書かれた本は、遙かに少なくなっていただろう。私たちは、社会のなかで闘争している。しかし、よりよい世界、少なくとも自由な社会のための本当の戦場は家族の中にある。

 

 

第15章 世界にはあまりにも多くの苦痛がある

 

人が苦しみに直面して、幸福になろうとする時、普通は、自分の人生の事について考える。―――つまり、苦しみに直面する中でどのように幸福になるか―――。しかし、私たちの多くにとって、苦しみに関する別の問題がある―――他人からの苦痛―――。外国人を含む他人からの苦痛が比較的ない時でさえ、幸福に対する、大きな障害ができてしまう。

ほとんどの人のように、私も、人生の大きな苦痛と問題にうち勝たなければならない。しかし、私は何時も思うことは、私が経験してきたどんな苦痛も数え切れない多数の人と比較すると―――私が個人的に知っている人、もちろん、一度も会ったことがない人―――極めて小さい。そして、彼らの苦しみは、私の幸福にとって最大の障害だと、私は考えている。

 このような考えがユニークだとは思っていない。一般に、苦しみはデリケートな人、品の良い人に作用するに違いない。人の苦しみの同時偏在能力は、―――特に彼らを傷つける他人のせいによるお人好しな人の苦しみ(自然の問題による苦しみと比べて)―――確かに、多くの人の幸福に作用している*。結果、私は度々思うのは、もし、出来るだけ自分が幸福になるために、というタイトルを付ければ、世界中に苦しみを与えるのではないかと。

 *不正な苦痛は私たちに感情的、知的、道徳的問題を与えるだけだ。公正な苦痛はそのような問題を与えないものだ。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

 

 

 結局、他人の苦しみは、私達の幸福を阻むという事に気づいた。しかし、私は選択した。―――これが選択だ―――出来る限り幸福になることを止めれば、苦痛に耐えなくても良くなる。これがその方法だ。

 第一に、自分が幸福になることを阻む世の悪を認める代わりに、―――それは、悪に別の勝利を与えるだけだ。―――自分の能力の最善をつくして、その悪と闘う事を選んだ。私は、これによって、幸福になるための「許可証」が得られると思っている。誰かが幸福を楽しむことを可能にすること、彼らを傷つけるものに対抗して闘うこと、または彼らを慰めることが、私を幸福にすると考えている。仮に、他の誰かの人生と違っていても。

 2番目に、幸福な人が素晴らしいことをする可能性より、不幸な人が素晴らしいことをする可能性の方がずっと低い。一例を挙げると、彼らは普通、あまりにも自分自身の事と自分の不幸に一生懸命になりすぎ、他人に良いことをすることができない。他方、もし彼らが、他人のために良いことをしたいと思っていても、不幸は簡単に彼らの判断を曇らせることがある。そして、最後に、社会の動きに基礎をおくか、一緒になることによって、不幸な人が他人を助けようとしても、素晴らしい事はおろか、もっと傷が付くことをすることが度々ある。社会を変化させたいと思っている不幸な人達の動きを恐れる良い例がある。百万の人生を破壊する左翼と右翼の社会の動きは、幸福な人々で構成されていなかった。不幸な人々で構成されていた。彼らは、自分の不幸で他人を非難した。(ナチーユダヤ人、共産主義者―資本家)。そして、幸福と意義を求めて、社会の急進的変化を求めた。一方、社会の秩序が重苦しい時代もある。(全体主義体制下で生きることは最も良い例だ)その時代では、個人的な幸福は必然的に不可能だ。それと比較すると、自由な社会では、不幸の源は社会よりは個人のほうに遙かに多くあるようだ。

 3番目に自分を不幸にする苦しみの極悪を認める代わりに、私は人生を祝福する感謝の量を増やすようにした。あなたには世の苦しみが全部わかる。そして、次のような状態になれる。悲しい状態(世の悪い評判)、冷笑的(重要なことではない。ルーレットゲームのように)、快楽主義(この苦しみで、私は面白いこと全てを得るだろう)、―――またはあなたは自分の祝福に感謝する事も出来る。

 4番目に、昔、不公正な苦しみの同時偏在によって私が分かったことは、知的で感情的な宗教的視野が人生には必要ということだ。もし、非宗教的な人がデリケートな人で、悪と苦痛を十分に感じているとしたら、彼または彼女が幸福になる事は本当に難しい、と私には思える。世の無宗教の見方はだいたい次のようだ。不公正と不道徳な生活は現実だ(例、この人生以外には何もない)そして誰かが祝福するか呪うかは必然的に、運による。誰かが、物事を苦しめるか祝福するかは宇宙による。それに対して、この考えのために、次のことについて深く注意を払ってみる。ひどい不運を呪う人は幸福をほとんど不可能なものにしているように見える。

 他人に深く注意を払っている宗教的な人にとって、個人の不公正な苦しみに対しての説明は必要ない。むしろ宗教的な人は、次のように考えている。慈悲深くて公正な神は宇宙を支配している。そしてこの現れた全てのカオス(混乱)には意味があると。

 この本では、神の存在や、宗教の価値を議論しない。私のここでの唯一の議論は、神と宗教を信じることによって、世界を見るための知的基礎ができるということだ。子供の泣き声に無感動な宇宙より他のもののように。―――苦痛に満ちた世で幸福を追求する大切な意味を明らかにすることによって。

 

 

第16章 絶対的な愛を探す

 

 

1995年、アメリカ動物病院協会がペットオーナー調査を行った。その中で、ペットオーナーの57%は次のように言っている。もし無人島に座礁したら、人よりもペットを仲間として優先する。

これは驚くことではない。動物との信頼関係を考える人口は増加し、人間関係を考える人の数と同じか多いくらいだ(多くの動物愛好家はペットという言葉を嫌う)。多くのアメリカ人は、ペットよりも好きな人はいないと言う。この20年間、私は北アメリカの高校生に尋ねてきた。もし君たちの犬と外国人がおぼれかかっているとき、初めにどちらを助けるか? (いくつかの宗教的な学校を除くと)ほとんど、約1/3の学生が犬を助ける方に、1/3が人を助ける方に票を入れた。そして1/3が単純には決められないという。私は、初めに犬を助けると言った学生に理由を尋ねた。彼らは答えた。「僕は犬を愛している。外国人は愛していない」。 私のラジオショーの多くの成人リスナーでさえ、犬(またはネコ、ハムスター、ウサギ、鳥、猿)だという。何故なら、動物のほうがずっと好きだし、他のどんな人よりも忠実だから。

 私は確信している。動物への好みがこのように増えている主な理由は、動物は絶対的な愛を与えるが、人々はそうではないという事だ。そして絶対的な愛を受け取るより望まれる物は何か? (例えば、何もしないで存在するだけで愛されること)

 今までのところは、絶対的な愛を探すことは、子供時代の名残だ。私たちは同僚の愛を必要とすべきだ。それは、子供が両親から受ける愛と同じではない。さらに絶対的な愛は、成熟した大人への成長を妨げる。もし、どのように行動しても愛されるのであれば、なぜ愛を得るように行動するのか? 

 現代では、愛を得ることは多くの人にとって、異教徒の概念になっている。しかし、次のことを認める。私たちは大人であるとき、一部得られた愛は成熟の礎である。私はデートの時、妻の愛を得る必要はなかったのか? なぜ結婚したからといって、愛を得ることを止めるのか? 考えられることは、妻に私を愛するようにさせる事は、子供とその母親から私を引き離すことになる。疑いなく、多くの成人は子供になりたい。そして配偶者に親になってもらいたい。しかし、これは健全とは、ほど遠いことだ。幸福への処方ではない。

 むしろ子供のように絶対的な愛を受ける人は成人としての愛を探さないと私は見ている。―――なぜなら、彼らは必要なとき、必要な愛を受け取っている。反対に、子供として与えられるべき愛を妨げられてきた人は、人生を通じて、愛を探すだろう。(または、少なくとも十分に成人に成熟するよう努力するまで)。

 絶対的な愛を受けるに値する成人はいない。単に存在するだけで、他人の愛を受けるに値するという考え方は、愛を幼稚なものにする。私たちは仲間から、上品に振る舞ってもらうのに値する。しかし、愛を得ることを期待すべきではない。

 何故なら、私たちは成人として絶対的な愛を受けるに値しないし、必要もない。絶対的な愛は、探すべきではない。もし子供の時、両親から絶対的な愛を与えられなかったとしたら、彼らは、今、与え始めたりしないだろう。私たちは10代に達したある日、子供時代からの絶対的な愛を当てにすることはできない。そして、私たちも同様に与えない(例、友人、配偶者)。

このように絶対的な愛を探すことは不幸を保証することになる。もし探し続けてみても、与えてくれる人はいない(犬を除く)。成人の愛は決して絶対的ではない。夫と妻の愛がどんなに大きくてもその愛は絶対的ではない。配偶者の愛の状況は失われることがある。失われることがあるはずだ。例えば、暴力を振るう男を愛し続ける女性はいないはずだ。

 

 神の愛について?

 他人に対する愛というのは(小さい子供を除く)絶対的ではないので、多くの人は絶対的な愛を神に求める。これは、愛のない世界で、人々を大いに助ける。特に彼らの親が絶対的な愛を与えない時はそうだ。

 しかし、記録によると、私の宗教的な見方では、神は全ての人に絶対的な愛を与えていない。神への私の理解の基は、ヘブライ聖書だ。それは神を愛する考えのオリジナルになっている。そこには、私達が拷問者なのか、または拷問者の生け贄なのかということは書かれていない。神は私達を同じように愛している。しかし、実は、神の愛は絶対的ではなく、条件付きだと言うことを示している。(例えば、エクソドゥス19;5参照、ここでは神の人々に対する愛は、誓約している人々に限定されている)。神に関してでさえ、私達は大人に成長しようとしなければならない、と私は考えている。神の私達への愛は巨大で寛大だ。(もし私達が悔い改めれば)。しかし絶対的な愛ではない。結果、だれも等しく愛している神を愛することは、私には難しかった。その理由は、神の愛は、私達が何をしようと不動のものだが、私は、不動のものを愛することはできない。

 

 

 

第17章 自分を被害者とみること

 

 

被害者の喜び

はっきりした幸福の法則がある。一つは、もしあなた自身のアイデンティティー(独自性)が被害者であれば、幸福になれない。多くの理由がある。

          自分を被害者と考える人は、人生をコントロールしているとは考えない。彼らの人生で何が起ころうと、彼らによるものではないのだ。

          自分を本来被害者だと考える人は、特に自分にとって世界は不公正だと考える。自分をいつも「いじめられている」と思っている若い学生は不幸だ。そしてそのまま成人する。

          本来自分を被害者だと思う人は、怒りっぽい人だ。怒りっぽい性質は幸福を不可能なものにする。

          自分を被害者だと思っている人は、人生を楽しむことが出来ない。何故なら、楽しむことと被害者だと思うことは、相反している。

 

 

 被害者の存在を否定しているわけではない。酔っぱらい運転者に麻痺させられたら、明らかに被害者だ。ここでの問題は、本当の被害者がいるかどうかではない。被害者と幸福の関係だ。数年前、私の甥ジョシュア・プレガーはマイクロバスに乗っていて、無謀運転のトラックとぶつかる事故にあった。初めは、四肢麻痺患者だったが、ほとんど奇跡的に快復した。彼の唯一の麻痺は次の通りだ。―――彼は今ウォルストリートジャーナルのレポーターをしている。手足を挫く悲惨な運命の結果、普通に歩くことは問題ないがボール遊びとトランペットを吹くことができなくなった。しかし、彼は自分を被害者だとは考えなかった。これによって、彼は私が知っている中で最も人生を楽しむドラマチックな一人になることが出来た。

 今の時代、自分を重大な被害者だと考えることの問題は、皮肉なことに、私の甥のような本当の被害者たちが抱える問題ではない。自分を被害者だと決めつける人の中にある。

 そのような被害者達は、5つのタイプに分けられる。子供時代の被害者、グループのメンバーとしての被害者、他人と違うことの被害者、取るに足らないことを考える被害者、罰を受けるに値する被害者。

 初めのグループは、いろいろな観点から親の被害者だと感じる人だ。その精神年齢では、精神病学的な要素から来るような不幸になりやすい。―――そして、このことは普通に躾られてしまう。私の甥が無謀ドライバーに負傷させられたように、無謀な親によって傷を負った人もいる。この人達は同情に値する。そして、彼らは助けを必要としている(精神療法/他)。しかし、親に傷つけられた被害者という度合いが大きい時ほど、それは幸福になる能力を徹底的に害する。

 その上、実際に私達は、親から何がしかの被害を受けている。躾という点から見ると、私達は、ほぼ全員、被害者といえる。親から問題を受け継ぐことが如何に普通の事なのか、UCLAの精神医学者ステファン・マーマー博士は主張している。親から受け継いだノイローゼの半分しか子供に渡さなかったとしたら、模範的な親といえるだろう!

 その上、自分を親の被害者と見続けるかどうかは私達次第だ。あなたはこのアイデンティティーから脱皮し始めた時初めて、幸福になり始めることができる。

 2番目の被害者のグループは自分を必ずしも被害者だとみなしていないが、自分が属しているグループが被害者になっていると見ている。何故なら、ほとんど全ての少数派―――グループとしての女性―――は被害者だ。これらのグループのメンバーは被害者のアイデンティティーを簡単に身につける傾向がある。その上、時代の精神は全部のグループを被害者としてみる見方を強めている。そして社会があなたは自分を被害者だと見るべきだと言う時、そう考えないようにするには強い個性がいる。

 このように多くの個人は、自分の不幸をグループの一員である事のせいにしている。もちろん、いくつかのケースでは、グループの一員であることは自動的に一人を被害者にする。ナチ占領ヨーロッパのユダヤ人、新世界の黒人奴隷、第一次世界大戦時のアルメニア人、多くの国、時代での同性愛者、ポルポト政権下のカンボジア―――悲惨なグループの数え切れない苦痛のほんの数例だ。しかし、過去のグループの苦痛から、また、そうすることで簡単に慰められることから、自分を被害者だと見続けている人々が今でもいる。そして、これで幸福になる可能性は薄い。第一に、このように、自分を被害者と考えることは、あなたを不幸にする。2番目に、それはあなたを永遠に怒らせ、むしろ不幸を保証するものになる。3番目に、それによって、あなたは直面すること全ての事を避けることが出来る。それによって、現実にあなたは不幸になる。

 被害者思考の3番目は、不幸を違っているもの全てのせいにする事。ある背の低い男は大きな不幸をその背の低さのせいにしている。不幸を養子であることのせいにする人もいる。私は、不幸を割礼(ユダヤ教の儀式)のせいにしている男性グループにさえ会ったことがある。実際、例はいくらでもある。

 オッズ(勝率)は圧倒的だ。不幸な、背の低い人も、養子も、割礼された男性も、もしそうでなかったとしても、みんな不幸になっていただろう。簡単に証明できる。不幸な背の低い人と同様に、背の高さが普通で不幸な人がいる。養父母を持つ不幸な子供と同様に、実の両親を持つ不幸な子供がいる。(実は、広範囲のアメリカの研究では、生まれた時から養子になった成年と、実の両親に育てられた成年を比較した結果、養子の方が、適合しやすいことが分かっている*)。そして不幸で、割礼されていない人も、不幸で割礼された人と同じくらいいる。(ユダヤ人男性はほとんど割礼されているが、特に不幸なグループではない)。従って、この少数派の人が不幸をその事実のせいにし始める時、彼らは大きな不幸を運命づけられる。一例は、彼らは、実際に存在しない問題を創っている。他方、違った所で不幸の原因を探し続けている。彼らは、自分を本当に悩ますものに集中しないようにするため、自分が他と違っている事全部を盾として使っている。

 4番目のグループは、取るに足らないことを考える被害者だ。

 かつて、ディナーパーティーで、私は学んだ。ゲストの一人で50歳の男性、仮にボブと呼ぼう、彼には双子の兄弟がいる。どのように暮らしてきたのか彼に尋ねた。

 「僕達は、去年までは、とても仲が良かったんだ」彼は答えた。

「何があったの?」私は尋ねた。49年間仲が良かった兄弟が突然別々に離れるのは全く驚きだ。

 彼の妻が答えた。「去年、ボブの50歳の誕生パーティーを開いたの。だけど、ボブの兄弟のパーティーは開かなかったの。―――もちろんボブの兄弟も招いたし、ケーキには、彼の名前も入れてあったのよ。」

話は続いた。彼らの両方ではなく、ボブの誕生パーティーを開いたのは彼女の侮辱だとボブの兄弟は受け止めた。彼は済ませることが出来なかった。事実にも関わらず彼はこう感じた。ボブと彼の妻は私に確信させた。2人の兄弟は違った世界で生きてきて、働き、社交的に過ごしてきた。共通の友人はなかった。

私はあきれて聞いていた。この侮辱はその反応と比べると、取るに足らないことのように見える。しかしもちろん、この兄弟は、ボブと妻に侮辱されてはいなかった。成人男性が自分の誕生パーティーを持っているべきだというのは理解できるものではない。むしろ、彼は侮辱されることに決めたのだ。彼は取るに足らない事を考え、自分を被害者だと考えることを選んだのだ。

 別の例は、カードショップで働く女性によるものだ。彼女は語った。彼女が高額紙幣を本物かどうかチェックする時、ある客は強く傷ついた。―――50ドル紙幣をテストすることで、どういうものか正直さを攻撃していると。

 侮辱が本当かどうかと言う事は必ずしも簡単ではない。しかし、それは可能だし、しなければならない。私達が度々意味もなく、取るに足らないことを考えてしまう間違いのもとは、度々過敏症になってしまうことだ。―――例え自分の利益だけでも。(私達は金の問題でよく間違えるように、自分の利益の上でもほとんど何時も間違えている)。私達が過敏症になってしまう理由は、不安、他人に対する怒り、または、自分が被害者の役を演じたいから。理由はどうであれ、侮辱されていてもいなくても、侮辱されていると思う事ほど、幸福を破壊することはない。

 もし、あなたが本当に人から侮辱されていると感じても、その直感が正しいかどうかを見極めるための公正な部外者を捜し出しなさい。直感が正しい場合は、その人達と、あなたを侮辱しない人達と入れ替えなさい。(その人達とつきあっていかなければいけない場合は、闘いなさい)。―――あなたには、自分の品位を下げておく義務はない。他方、もしあなたの直感が正しくない時、直感を追い払いなさい。―――そして、何故あなたは何でもないのに、取るに足らないことを考えたくなってしまったのかを探し出しなさい。

 被害者の5番目のグループは、自分自身の振る舞いから被害者になっている。そして、罰を受けるに値する結果を他人の振る舞いのせいにする。

          無責任な振る舞いが続いたことからクビになった労働者は、失業をクビにした人のせいにする。

          試験に落第する学生は、悪い評価をつけた教師のせいにする。

          いつもつまらない男に惚れていて、誘ってくれる素晴らしい男を無視する女は、男は社会的な災いの元だと非難する。

これらの人は彼ら自身の振る舞いによる犠牲者だ。そして幸福は、彼らがこの事に気がつくまで、来ないだろう。

 

 

 

*1994年6月23日のニューヨークタイムズに報告された研究は、ミネアポリスの非営利団体である調査機関によって行われた。子供と青年に関する調査。これは、メリーランド州のベテスダにある国立心の健康研究所により、一部資金提供された。

「新しい研究で、養子になった10代の少年は、危険度の高い行動を起こす事は少ない。例えば、国内の例では、飲酒、窃盗などは、養子でない少年より少ない」

「養子になった青年は、交友関係、学歴など、16の指標でよりよい結果を示している。」

「少しだが、養子になった少年少女のほうが、どういう人なのか、どういう場所なのかをよりよく掴んでいる」

「養子になった10代の少年の55%は、自己尊重で高いスコアーを記録している。」

 このデータは、生まれて15ヶ月以降に養子になった子供には適用されない。

 

 

 

 

 何故、被害者思考が現れるのか

 幸福に対して、被害者思考がどのくらい破壊的かを挙げると、人はそれを避けるために可能な事全てをしようと考えるだろう。不運にも、これは例ではない。むしろ、私達が、普通、自分の幸福に対する最大の障害がどのようなものかを示す別の例だ。

 何故人々は、被害者の状態を選ぶのか?

 

 人生と自分自身に直面するより他人のせいにする方が簡単だ

 

 不幸な時、大きな選択に直面する。私達は認めるだろうか?

人生は個々に複雑で、幸福への障害で満ちていると。または私達は不幸を他人のせいにするか? もちろん、いくつかの本当にひどい例は―――酔っぱらい運転で恋人を失う―――これは、他人のせいにすることは全く妥当だ。しかし、不幸な人が他人のせいにするのは、人生の複雑さを認めるより簡単だと言う理由からだ。または、不幸のもとを探すより簡単だからだ。

 その上、他人が自分の悲惨のもとになっている時でさえ、私達はまだ、自分の幸福をコントロールしないままでいる。外部の力がどのくらい人生を左右するかは関係ない。私達には、実際に何時もコントロールできるものが1つだけある。―――どのように反応するかだ。

 私が強く影響された本で、”Man’s Search for Meaning” (意義の探索)がある。精神分析者ヴィクター・フランクルの観察と回想録だ。彼はナチ収容キャンプで生き残った。彼の最も重要な洞察の一つは次の通りだ。ナチは、収容者の全生命をコントロールしていた。生、餓死、拷問、死もコントロールしていた。しかし、コントロールできないものが1つだけあった。―――収容者がどのように反応するか。

 主な推論で私が分かったことは、生活環境と幸福のレベルは関係ないという事だ。もし外的な環境で幸福が決まってしまうのなら、幸福は、むしろ単純な問題と言えよう。人の外的な環境を知るだけで、簡単に幸福かどうかがわかる。そして、コントロールできないから幸福になろうとしてはならない事になる。結果、2つの単純な公式で、幸福を予言できるはずだ。良い環境=幸福な人々。 悪い環境=不幸な人々。

 このような公式は存在しない。この結果で、他人のせいにする人は確信するだろう。不幸を外的力のせいにすることは間違いだ。他人は確かに幸・不幸の一因だ。しかし、他人が自分自身にどのくらい影響させるかを最終的に決めるのは私達なのだ。

 

 被害者達は共感を集める

 誰かを被害者として決めることは、別の推論を強める。―――被害者は共感を得る。または得ようと考える。被害者に関して、自分の不幸を他人のせいにするようになる誘惑はまったく強い。そして、他人の共感を得る。なんと大きな取引か!

 

 

 人生をコントロールしないのは、より簡単

 被害者になりやすい別の要素は、私たちは自分の幸福についての責任者だという結果を放棄することだ。もし、あなたが船の船長だとしたら、権限がある。しかし、権限がなければ、驚くべきことだし、船長とはいえない。個人の責任は簡単に保証されない。被害者は保証を必要としない。

 

 自己同情は、麻薬常用的

 私たちは自己同情を気にとめてよく行動する。それは、被害者思考の避けられない産物だ。麻薬のように止められなくなる。麻薬の専門家は主張する。麻薬は、まず第一に苦痛を癒すために用いられる。自己同情にも同様の機能がある。そして、麻薬中毒者のように、だんだん止めるのが難しくなる。その上、麻薬中毒のように、自己同情中毒は、自身や他人を破壊していく。------自己同情におぼれるのは簡単なので、自己破壊的になって、行動を停止させる。他人にたいする破壊的なこと: 自分を被害者だと考えれば考えるほど、怒りを覚え、他人をののしるようになる。

 

 

 成長するのは難しい

 人が被害者的な物の見方をする最大の理由は、未成熟だ。誘惑的だが破壊的な選択を避けると、人は成長する。人生をコントロールされるのではなく、コントロールしたいと思うと成長する。そして自己同情に溺れる危機に自身を置かないで成長する。

 問題は次の通りだ。私たちが次代へ残す目標の中で、成長は、高い目標にはなっていない。私たちは、幸福、成功、知能に重きをおいて、成長することには重きをおかない。未成熟な人があまりにも多い時、成長することに重きをおかないことは、社会と幸福になりたい個人にとって、非常に悪い。 


第18章  異性

 

ほとんどの人にとって、異性との良好な関係は、比類のない幸福源だ。結婚は、孤独に大きな解毒剤を与えることができる。感情面で最大の成長と幸福の源になる。

 しかし、ちょうど家族が幸福の源であり、その反対の源でもあるように、異性についても同様だ。男女はお互いに大きく異なるので、多くの人が一緒にならなくても不思議ではない。が、そうではない。これはひとつの推論だが、結婚は個人的な成長の源になれる。-------自分とずいぶん違う人とうまくやっていく方法を学ぶことは、大きな業績だ。男女に違いがあることは確だ。彼らが異性から確信させられることは、単に別の性だということではなく、別の種だということだ。

 幸福への挑戦は、男女が違うというだけでなく、この違いが争いと同様に平安をもたらすという結果の中にある。今、男女の衝突の原因になっている違いのひとつに注目する。

 

 

 男、女、そして満足されない違い

 人の性質の章で述べたように、人の性質は満足しない。これは男女の問題でも同様だ。しかし、男女はまた、違ったふうに満足されない。そして、それぞれに、緊張をもたらす。

 一般に、両方の性には満足しない性質がある。そして、満足しない部分を共有していることもある。たとえば、男女は際限なく財をなすことに悩む。これはすでに持っているものに対する重大な障害になることはあるが、2人の間に重大な緊張をもたらすとは限らない。しかし、お互い、異性に対しての不満は、違う。そして度々、不満を持つ事は、両性間に不協和音をもたらす。これらの相容れない不満の領域を認める事は、男女のハーモニーを促進する大きな助けになる。

 男性の不満領域は、セックスの多様性だ。女性の不満領域は、感情的な愛情表現だ。

 私は実感している。男女の性質を理解することは、今の考えにいきつく。読むのは苦痛になることがある。しかし、もし本当に、不幸の源である性質と対決して、打ち勝ちたいのなら、できる限り正しくその性質を描かなければならない。

 男性の性質は、性的に中身を考えず、どちらかというと、別のパートナーに肉欲を抱く設計になっている。(同じパートナーにもっとセックスを渇望することとは異なる。この欲望は2つの性を特徴づけることがある)。他のパートナーへの欲望は社会的に認知されないが、男性の性質の一部だ。証拠は、次の通りだ。異性愛の男性がいるように、同性愛の男性も実際にいる。それと数十億ドルのポルノ産業だ。それは、たいがい男性向けだ。------再び、同性愛か異性愛か------そしてそれは新しい肉欲の対象を無限に供給する。もし男性の性質が、多様でないなら、プレイボーイ誌は一冊で永遠に十分である。

 その上、度々セックスする男性も、めったにしない男性も、独身・既婚男性も、パートナーを愛している男性も、不幸な結婚の男性も、異性への熱望はある。言い換えると、ほとんどすべての男性にある。しかし、ほとんどの男性にとっては、一夫一婦制で、別の性的なパートナーを探さない。それは、社会的影響の結果だ。

 性的な性質の説明が誤って解釈されないように明らかにしておく必要がある。これは、男性と妻に対する不幸の源になることができる不満領域について述べているだけだ。満足しない性質に従って行動している男性の弁護をしているわけではない。

 このような男性の性質は、多くの女性にとっては、嫌なことだ。特に彼女たちが初めてそれを知る時はそうだ。それは間違いないが、それは単に女性にとって嫌なことというだけではない。哺乳動物より高い発達程度の生活をしたいと願う男性にとっても面白くない事だ。そして、男性の性質の嫌な面を無視できる女性と違って(無視すべきではないが)、男性はそれを無視できない。それはいつでもどこでもある衝動だ。

 女性にも衝動がある。

 2つの性の間にひどい不満のアンバランスがないように、神または自然は女性にもそれ相当に不満の衝動を与えた。賢明なことに、男性の衝動と反対の方向に働く衝動であった。もし女性が多くのパートナーを求める男性を認めていたら、世界は自滅するだろう。結婚して家族を持つ人はいなくなる。継続するものはなくなる。男女は満足を求めて離婚する。魅力的でない男女は無視され、人類は動物王国と変わらなくなる。

 性的多様性に向かう男性の活力。これと均衡するのに必要なものは、感情的な愛情表現をもつ女性の活力だ。その欲求は、いろいろな言い方があるが、多様性に向かう男性の欲求と反対のイメージだ。他人の体に対する性的熱望が満足されない男性のように、女性の感情的愛情表現も滅多に満足されない。男性が次のように言うのは想像しにくい「一人の女で満足だから、他の女には全然興味ないよ」。同様に、女性が次のように言うのも想像できない。「今は、沢山の愛情表現に満足しているの。深いのはいらないわ。誰かとの個人的な時間もこれ以上いらないわ。夫も、母も、子供や他の人もね。」

 悪くない結婚生活で、夫婦間の不協和音は、次のことから由来する。愛情表現をもっと求める女性の熱望。女性の熱望に対して男性が何もしないこと。そして/または彼女または他人とのセックスを求める男性の熱望。

性は違うことを望んでいないが、男女の性質の差から緊張が生じる。女性が男性のようであったと考えよう。愛情表現がなく、多様指向で、いつも新しい刺激を求める性質であるとどうだろう。男性はそのような競争的な女性をひどく嫌うだろう。一定の家に定住する人は、ほとんどいなくなる。(彼らの放浪の生活にもかかわらず、男性はそれを欲しがる)。そして、次の世代を育てる男女はほとんどいなくなる。一方、男性が女性のように巣に順応した愛情表現を望む場合を考えてみよう。男は男の体を持って、欲望がなく、本質的に女性のようになる。性的にアグレッシブな男の性質は彼を----自分の性質をコントロールするとき、-------最も魅力的女性にする。

 言い換えると、女性は男らしい男性を求め、男性は女らしい女性を求める。しかし、男らしい男と女らしい女は犠牲を伴う-------彼らの明らかな性質。

 

 

 行うこと

 この問題を改善する方法がある。はじめに男女は性が異なった性質であること、不満領域が違うことを認める事。

 まず、自分の性を理解することから始める。男性、女性の性質は、満足しない性質であることを認める時、不満に対処するよりよい位置にいる。人生で最大の挫折は、達成できるはずのないことを達成できると考えてしまう時だ。社長候補者が社長になれない時、挫折する。しかし私たちのほとんどは、社長になれなくても挫折しない。なぜなら、私たちは社長になれると考えていないからだ。

 もし男性が性的な満足が達成できると考えるとき(例えば、他のパートナーと寝ることによって)、彼は挫折して、不幸になる。彼の強い指向は彼をもてあそぶ。彼の心は、自分の性質の反作用を受けるのだ。

 仮に、彼が首尾よく新しい女性と寝ることができるとしよう。次の日、次の週、次の月、どうなるか? 彼はその事の前に--------新しい誰かを求める(悲惨な結婚生活と他の問題は除く)---------戻ってしまう。ほとんどの男性にとって、増える性的満足は、魅力的な女性をずっと供給される王様の生活を意味する。そしてその時でさえ、性的な満足は保証されない。スリルは時間とともに減るからだ。

 男性が婚外性交を持つことに対して、これは最も効果のある議論だ。もし男性の性的な性質が、年に1回、新しいパートナーが必要だとすると、実際に一年の性的な平和が彼に与えられるといえる。純粋に性的な(例えば、非道徳な)立場で、婚外性交の議論は、成立するだろう。しかし、性的なことは、男性の多様性への欲望を一年間、抑える事はできない。その出来事の後、まもなく、彼の性的な望みは2乗になる。

 夫(または妻)のために、素晴らしい性生活が大切、という事に反対する議論はない。男性の性的な多様性の欲望が十分に満足されないということは、もっとよい性生活、悪い性生活があること意味しているわけではない。性的な関係は、時間という点からみると、結婚の小さな挫折だ。それにもかかわらず、それは、結婚の残りの部分を作ることができるか、あるいは破壊することができる。良い(十分に満足でないが)性生活は、良い結婚生活に大切だ。

 しかし、最も素晴らしい環境の時でも、男性はそのことを知らなければならない。----彼を愛しているパートナーとの、度々そして満足の行く性的な関係-----彼はまだ性的な挫折があるだろう(特に現代の西洋社会では、彼らの性的な攻撃で)。彼は自分の性的な性質の不満が絶えずあるに違いない。そして(可能な時)、自分の性生活に感謝するようにならなければならない。

同時に、感情的な性質は十分に満足されることはない。この事を女性は絶えず掴んでいなければならない。最良の環境の時でも、--------よく愛情表現をしてくれ、話してくれる素敵な夫との結婚生活---------彼女にはまだ、欲求不満がある。愛される時間、愛情表現の時間を彼女はもっと増やしたいからだ;------そして、もし夫ともっと多くの時間をもてない時は、子供ともっと多くの時間をすごす。または、彼女の母、父、兄弟、友人と過ごす。女性は自分の性質を知ることで、大いに開放されることもある。満足しない性質を知ることで、(可能なとき)、愛情表現を受けた時、感謝するようになる。

そういう性質の男性の助けになれる事を、女性は知っていなければならない(まず第一にそれを理解しようとすることによって)。同様に、そのような性質の女性の助けになれる事を、男性は全てやらねばならない。(まず第一にそれを理解しようとすることによって)。そして、彼女とのもっと深くて愛情表現の多い関係を持ちなさい----------もっと長い時間、もっと態度に出す。花のように。そして、もっと抱きしめ、親切に。-----

この問題を述べる別の方法がある。欲望は記憶されない。心が記憶するだけだ。もし男性が愛する人との素晴らしいセックスの次の日、ビキニのセクシーな女性を見たとすると、彼は一ヶ月セックスがなかったように、その女性を望むかもしれない。一方、もし女性が彼女の男から一人だけで、愛情表現の多い休暇を持っても、家に帰り、いつもの働くスケジュールになったとしたら、彼女の愛情表現に対する欲望は、今まで愛情表現を受けたことがないように考えるかもしれない。彼女の記憶は残っているに違いないが、欲望は記憶されない。

幸福を達成する事は自分の性質といつも戦うことを意味する。私たちは初めに自分の性質が何なのか知らなければならない。そして、それをコントロールしなければならない。それは決して簡単ではない。この性のケースでは、特に難しい。

 

 

 

第19章 遺伝または生理化学

 

 

生まれるとき、もし話すことができたら、ある子供は言うだろう・「ありがとう、こんなに美しい世界に僕を送ってくれて。ここに来られてドキドキするし、うれしいよ」

別の子供は違うように言う「僕は妊娠してくれなんて頼まなかったよ。暖かくしないように、安全にしないように頼まなかった。あんたはそうした。だから、あんたの人生を悲惨なものにしてやるよ」。この子供は人生を不幸なものにし始めるように見える。

両親が認めるように、------------そして次々にでる兆候を知る------------私たちは個人の特徴をもって生まれる。これらが完全に遺伝的なのか、一部は子宮で形成されるのか、魂の特徴なのか、またはそれら3つの複合なのかは、ここでは、問題にしない。この論争で決定的なのは、次のことだ。私たちのうち、ある人は幸福になりやすい素質を持って生まれてくる。ある人は不幸になりやすい素質を持って生まれる。ある人は不機嫌な人物で、ある人はいつも大体上機嫌な人物だ。*

 

 

不幸の生理化学的起源

この不幸な結果と対決する前に、「生まれつきの」贔屓を考える必要がある。-

慢性的に不幸な人は、このように生まれてきたわけではない。多くは、人生のある日、不幸になった。恐らく幼少期に(そして生まれた時から不幸だと考える)。そして、この人にとっては、不幸は生理化学的な変化からきている。うつ状態になる人もいる。

 ほとんどの不幸は環境、態度、心理状態の結果なので、不幸は生化学的な原因をもつ。(そしてこの生理化学はトラウマの環境になるかもしれない)

 生理化学的に誘導された不幸は、態度的な、環境の、治療の、変化だけによってされないはずはない。不幸の生理化学的なルーツは生理化学的な答えが必要かもしれない。これが意味するところは、ある人の慢性的な不幸はプロザックのような精神安定剤によって、いくらか癒されるに違いない。これによって医療行為は減るかもしれない。このような薬が過剰投与される議論は本当だが、的外れだ。抗生物質は過剰投与されている。しかし、それが時々必要である事を否定するものはいない。

 

 *この本の領域になっているパズルの答えは、なぜこの2つのタイプがいつも互いに結びついているかだ。私の人生で、不機嫌な人と不機嫌な人が結婚するのをみたことがない。------それが証明するのは、不機嫌な人は不幸かもしれないが、無口ではない。不機嫌でない人はいつも無口で血族結婚しているということを意味しているわけではない------不機嫌でない人は度々感情バランスをとるため、もっと不機嫌なパートナーを必要とする。その上、多くの人はデートの時、不幸な性質を隠す。それは私たちの目的と関係ある。なぜなら、報酬が十分大きい時、とんどの人は彼らが感じているより幸福に振舞うことができる。

 

 

 

 精神安定剤についての3つの思い違い

 プロザックのような薬について、3つの一般的な思い違いは、正しく発信される必要がある。初めに、こういう薬は、苦痛の源と対決しているわけではない。2番目に薬が効いている時はハッピーだが、それは作られたものだ。3番目に精神薬を当てにすることは少し不名誉なことだ。-------薬なしでも問題は解決できる------

 第一の障害。精神薬を取る人は、幸福に対する精神的な障害と対決していない。こういう人の傷は簡単には癒されない。薬は生理化学的な問題を治療している。うつ状態の生理化学的な原因を治療するだけだ。一方、一度生理化学的な治療がされると、------------霧は上り始めるから----------うつ状態の精神的な原因と対決するようになるべきだ。(それは生理化学的アンバランスの顕著な結果をもたらす)。

精神薬についての2番目の思い違いは、それらが人工的な幸福をもたらすということだ。これは思い違いだ。なぜなら、精神薬は誰もハッピーにしない。それらはただ幸福になることを可能にするだけだ。プロザックのような薬は人を幸福にしない。足の骨折のギブスが、人を陸上スターにするほうが簡単だ。ギブスは、再び走れるまで、足が直るのを可能にするだけだ。如何に速く走るかは個人の努力、精神的な健康、生まれつきの能力/他にかかっている。プロザック型の薬を取って達成される幸福は人工的なもの、ということが価値のないことを主張する理由だ。同様に、足の外科治療をした陸上走者が優勝するのは、不自然かもしれない。

 3番目の思い違いは、精神薬を取る事は少し不名誉だということだ。この思い違いは人々に自分の問題と対決する不屈の精神を持たなくさせる。そして、簡単に頼るようになる。または病気になれば薬が必要になる。全く注目すべきことだが、20世紀の終わりに、そのような見方の異なった高尚な人がいる。彼らはただ無知と先入観について言うことができるだけだ。無知は、幸福における生物的効果だ。先入観は、心の病気は体の病気と類似しているという時代遅れの考えだ。.

 私は、精神薬によって助かることができる人に心から同情する。しかし、この思い違いによって、それを取ることを拒絶する。そして、精神薬に反対する議論をしている人に私の怒りは向かっている。例えば、アメリカの内科医、精神科医がいるのと同様に、人々が精神薬を取らない事を目的とする研究所を運営する人もいる。彼の議論のひとつは、うつ状態に苦しむ女性は、社会での女性蔑視があるから、精神薬をとれないという事だ。決して生理化学的理由ではない。この医者が男性のうつ状態について語っていることを私は聞いたことがない。恐らく、資本主義によるものだ。

 この議論にもかかわらず、精神薬を取る事はいつも最後の切り札に違いないと信じている。治療、宗教、他の努力がなされても、うつ状態を食い止める事ができなかた時のみ、それは使用されるべきだ。その努力に関して、個人は自分のダイエットの仕方についても考えるべきだ。栄養学や治療の専門家のもとでのビタミン摂取についても考えるべきだ。不機嫌な時のダイエットの効果は顕著だ。さらに、精神薬を取る患者は、可能であれば、最後に薬をなくす事を狙うべきだ。

 もし私が最大の不幸は生物学的に基礎をおいていると信じていれば、幸福について話したり、書いたりしてこなかった。この本の他の章は次の信念を前提にしている。自分の人生に対する態度と考えを変えることによって不幸を減らせるという信念。それにもかかわらず、私たちの多くは、思いたがっている。不幸は、他でもなく、社会的に、精神学的に、哲学的に治療できると。

 私たちの中には、生物学的な不幸を持って生まれた人がいる。あるいは、普通、若いときに、うつ状態、他の素質を受け入れている。私たち自身、この事を知る事は大切だ。そして愛する人についてこの事を知ることも大切だ。

 もし、このような素質をもっていても、治療できるだろう。それを受け入れることは大切だ。もし、この方法を「試した」結果、もはや不幸を自分自身のせいにしなければならないか、愛する人のせいにしなければならない。---------それはあなた自身のせいか、愛する人のせいだ。

 もし、愛する人が不幸になりかかっているとき、私たちは結局、人を幸福にすることについて責任を感じないという自由な現実に直面することができる。親の不幸に責任を感じる多くの子供と、そして配偶者の不幸に責任を感じる夫と妻は、お互いの世代で、涙の海をつくりだす。もし、あなたか、愛する人が継続的にふさぎこんでいるなら、チャンスは、別の愛していない人だ。精神科医にみてもらわなければならない。そして非難のサイクルを終わりにしなければならない。